まばたきの永遠 第十話

こう暑いと、人はあまり外へ出なくなるんじゃないかと思っていたが、実際はそうでもないらしい。駅前の広い交差点は、夏の熱光線にさらされながら信号待ちをする人達であふれていた。そのむさ苦しい集団の中、同じように信号待ちをしていた私と黒斗は、暑いね、早く帰って冷たい麦茶でも飲もう、と言葉を交わしながら、このうだるような暑さにほとほとまいっていた。信号が青に変わって、私たちはいっせい歩きだした。右手に持った、大きな買い物袋が音を立てて揺れた。中にはさっきデパートで購入した水着が入っている。明日の海水浴のために買ったのだ。藍色に、斜めから流れるような白のラインが入った、とてもシンプルなデザインのやつだ。男の人の意見もききたくて黒斗を無理やり誘ったのだけれど、失敗だった。始終、彼は顔を真っ赤にしたまま、ほとんど試着に立ち会ってはくれなかった。そういう場所は苦手なんだ、と帰り道、彼は苦笑しながら言った。 おかしくて私は笑った。「そんなので海水浴、平気?」「海はいいんだよ」黒斗は困ったように言った。「ただ、ああいうお店で見るのが苦手なの」 ああ、それはなんだか分かる気がするな、と思いながら私は、ふぅん、と頷いた。街からだいぶ離れた、静かな小道だった。民家が多く、どこも歩道のような細い道路なので、たいして車も通らない。日差しの強さは変わらないが、喧噪がない分、気持ち的に暑さが薄まる気がする。「黒斗も水着持ってきているの?」荷物の手を持ち替えて、私は言った。「うん。去年のがあるから」「そっか。私も家にはあるんだけどね。海のことなんてすっかり忘れていたからさ」「裕輔伯父さんのことがあったからね」「うん」
 突き当たり、路地が二手に別れていて、私たちは足を止めた。どちらを曲がろう。どちらからでも、家へは帰れる。と、黒斗が、左をいこう、と言ってさっさと歩きだしたので、私は慌てて彼の背中を追った。「珍しいね。黒斗が自分から先頭きって道を選ぶなんて。いつもならそういうことあまり言わないのに」少し驚いて私が言うと、「うん。たまにはね」と黒斗は、はにかむように笑った。路地を抜けて、きれいな散歩道に出た。優しいクリーム色のレンガをはめ込んだ道が真っすぐに続き、両脇には小さな花壇が並んでいる。以前はただの砂利道だったのに、どうやら最近になって舗装されたらしい。おしゃれだな。こっちに曲がって正解だったな、と内心はしゃいでいると、ふと目の縁に知っている人影が映って、私は足を止めた。 見ると、それは紋太の姿だった。ちょっと先にある、やけに緑に囲まれた小さな公園。彼はそこにぽつんとひとりで立っていた。
「ねぇ黒斗。紋太だよ。ほら」買い物袋をぶらぶらさせながら、近づいていき、大声で彼を呼ぼうと手をあげたところで、私はかたまった。あやうく飛び出しかけた声に、喉が震えた。公園にいたのは、紋太ひとりではなかった。 遠目からは気が付かなかったが、手前の木の陰にそっと隠れるようにして、その人はいた。背の高い、髪の長い、女の人。今日の空のような青いノースリーブに、雲みたいに真っ白ですとんとしたスカート。まるで、お嬢様がそのまま形になったような人だ。昨日の電話の女だ、と私は直感的に悟った。 と、いきなり背中がぐいっと押されて、驚いた私は顔をあげた。「いこう」落ち着き払った様子で、黒斗は言った。「近くで彼らの会話をきいてみようよ」「だめだよ。そんな」泡を食って私は言った。しかし、黒斗は嫌がる私の手をとると、引きずるようにして紋太たちのいる方へと突き進んでいった。意外だった。十年以上もいとこをやっていて、彼の強引な面を見たのは、これが初めてのことだったのだ。それまでの黒斗は、いつもおとなしくて、時折助言をすることはあってもあまり自分の意見を主張するタイプではなかった。私たちの中で、そういう役割は全て紋太が担っていたから、あえてそうする必要もなかったのだと思う。それなのに。私は斜め後ろから、黒斗の真剣な表情を見つめた。今、目の前に映る彼はまるで別人のようだ。ずいぶん近くまできても、彼らは私たちに気が付かなかった。どちらかが少しでもこっちを見たら、確実に気づかれる。お互いにおかれた距離は、それくらい短い。深夜の廊下を歩く足音のように、私の心臓がしだいに早鐘を打ち始める。「どうしてもだめですか」最初に耳に届いたのは、女の人の言葉だった。細々としたこの声、そうだ、やっぱり電話の人だ。聞き耳を立てながら、私は心の中で確信した。「この間からそう言ってるだろ」きっぱりと紋太は言った。やけに面倒臭そうな、投げやりな口調だ。「だいたい、家にまで電話してきて。そういう話なら大学で出来るじゃないか」「どうしてなんですか」やや強めな口調で、女の方が言い返す。「どうして私じゃだめなんですか」修羅場かな、と私は思った。まさかいとこのこんな生々しい場面に立ち会うことになるなんて、思ってもみなかった。 黒斗と肩をそろえ、彼らに背を向ける形でフェンスに寄りかかる。私はなにをやっているんだろう、と思う一方で、彼らのやりとりに完全に集中してしまっている自分がいる。 それが興味本位だけやっているわけではないことは、私にもよく分かっていた。「好きな人がいるんだ」と紋太は言った。好きな人。誰だろう。同じ大学の人だろうか。いや、バイト先の人かもしれない。「昨日の、電話に出た人ですか?」女の人は言った。脅えや懇願が入り交じったような、電話の時よりも、さらにくぐもった声だった。そんなはずないじゃない、と私は小さく呟いていた。勘違いしないで。私は彼のいとこで、それ以上でもそれ以下でもないのよ。 けれど、それに対する紋太の答えがなかなかきこえてこない。いつも即決即答の彼にしては珍しい。不思議に思って、私はそっと首をねじ曲げ、彼らに視線を飛ばした。その時だった。紋太は向かいに立つ彼女を真っすぐに見据えると、はっきり輪郭を持たせた声で、こう答えたのだった。「そうだよ」え。危うく声に出しかけて、私は自分で自分の口を手のひらでふさいだ。いや、出せるはずがないのだった。私の呼吸は、驚きがすぎてぴたりと止まっていた。一瞬のうちに、なにもかもが滑るように遠のいた。暑さも、音も、空気も、全てが真空状態に変わったかと思うと、次の瞬間には、打ち寄せる波のように、熱いものが喉元までせりあがってきた。息苦しかった。泣き出したいような、叫びたいような、とにかく一言ではとても表現しきれない無重力な感覚。まるで、全身にぐるぐる巻にされていた鎖が突然粉々に消滅して、自由を解き放された、そんな解放感に満ちあふれていた。いたたまれなくなって目をあげると、黒斗がビー玉のような瞳を光らせながら笑っていた。そして、その笑顔を目にしたとたん、私はなんとなく分かってしまったのだった。昨夜の彼の予言めいた言葉と、さっきの強引な態度。それらは、最初から同一直線上の理由に並んでいたことに。「知っていたのね」唇を尖らせて私は言った。「なにが?」とぼけた口調で、黒斗は言った。「おもしろいものが見れたね。さ、彼らにばれないうちに帰ろう」そそくさと遠ざかろうとする背中に、私は鼻にしわを寄せ、いじわるね、と呟きながら小さく笑った。
               続く