2006-01-01から1年間の記事一覧

今夜降る奇跡の下で

杉浦紅葉。 スギウラモミジ。 たった今、順から教えてもらった名前を口の中で繰り返す。彼女の横顔が、ひらめきのように脳裏に浮かんだ。幻影だったあの人が、これで名前を得たわけだ。 「なにニヤニヤしてんだよ。秋良」 いたずな笑みを作りながら、順は僕…

コール

散歩に行ってくる、と家族に言い残して外へ出る。コンビニまでは行かず近くの自販機でホットコーヒーを買う。ジーンズのポケットから携帯を取り出すと、アドレス帳から彼女の名前を選び出した。コールしようか迷った挙句、僕は渋々それをポケットへ戻した。…

桜ノ木ノ下デ歌ウ

既にしどけないまでに咲き誇る桜並木を愛犬と共に歩く。ふと犬が立ち止まり辺りに視線を巡らせる。何か聞こえるのだろうか。周囲に人影はない。再び歩き始めた時、今度は僕が足を止める。ほんの一瞬耳元をかすめた若い女の歌声。囁きにも似た吐息混じりの歌…

Close or Not 三章

翌日、朝のニュースで犯人逮捕をアナウンサーが淡々とした口調で伝えていた。彼女を殺害したのは、僕の知っている人物だった。 僕はテレビをつけっ放しにしながら、さっさと服に着替えて冷蔵庫から作りおきの朝食を取り出して簡単に済ませた。靴を履き、ドア…

Close or Not 二章

裡里の葬儀は、ひっそりと行われた。空は仄暗く曇っており、空気は湿り気を帯びていた。昨夜降った雨で雪は消えており、道端の隅っこにだけ泥と交じった塊が、辛うじて残っている程度であった。参列者の姿も少なく、しかも訪れている者たちのほとんどが、見…

Close or Not  一章

死体の匂いを嗅ぎ付ける能力が自分に備わっていることを知ったのは、もう随分と昔の事だ。その異質な力をはっきりと自覚したのが今から十年ほど前、僕が九歳の頃だ。以前から、どす黒く光る内蔵を広げた猫を道端で見たり、玄関先に羽を閉じたまま固くなって…

最後の希望

息子よ。歪んだ俺の視界でもお前の顔はよく見える。俺はきっともうすぐ逝くだろう。こんな体になってから思うのは、父としてお前に何かしてやれたのかということだ。自分でもよくわからない。せめて今の俺がお前にしてやれるのは、死の怖さと生の大切さを伝…

サヨナラ

傾いた太陽が、僕らの足元に影を作る。大きなボストンバックを右手にぶら下げた彼女が新幹線へ乗り込んだところで振り返った。僕を含めた見送りの数人で彼女に別れの言葉を贈る。閉まるドアの向こう側で、彼女はそっと微笑んだ。さよなら。心の中で呟きなが…

林檎

凍るような寒さを、漆黒の夜空とそこに浮かぶいくつかの雲が包む。街灯がほとんどない薄暗い路地から表通りへと抜けると、視界が一気にひらけ、僕はそこで足を止めた。右手に建つ赤レンガ調の巨大な時計台は午後の十一時を回っている。都会の中心部ならとも…

名も知らぬ君へ

例えば、それを一目ぼれと呼ぶにはなんとなくしっくりとこない気がする。別に僕は、彼女を初めて目にした瞬間、恋に落ちたというわけではないのだ。ただ毎日、同じ場所で、同じ時間に彼女を見かけるうちに、いつの間にか特別な感情が胸の内に芽を出していた…

約束

・・・そうだ。俺は。「よお。ユウジ」背中からの声に振り返る。そこには二年前、肺がんで死んだはずのモリタの姿があった。ユウジは唖然として彼を凝視した。「そんな顔で見るなって」モリタは苦笑いして言った。「やっぱり。俺は死んだんだな」とユウジは…

ベリー☆ハニー

「高校卒業したら私、福祉の専門学校入るんだ」肩を並べながら歩く彼女が唐突に言った。「福祉?」「そう。福祉」こくんと頷く彼女を、まじまじと見つめる。「縁日をミドリノヒなんて言ってた君が?」「昔の話じゃん」一年前を昔というのなら、まあそういう…

さよなら

傾いた太陽が、僕らの足元に影を作る。大きなボストンバックを右手にぶら下げた彼女が新幹線へ乗り込んだところで振り返った。僕を含めた見送りの数人で彼女に別れの言葉を贈る。閉まるドアの向こう側で、彼女はそっと微笑んだ。さよなら。心の中で呟きなが…

face

私の向かいのデスクに彼女がいる。私とされほど歳の差がない彼女。ころころとよく笑い冗談も口にする明るさをまとった女。だけど私は知っている。その顔が異性にしか向けられていないことに。同性に対しての陰湿な面も、身を持って知っている。他に誰が知っ…

Picture

今さら驚くことじゃない。両親は昔から仲が悪かった。お互いをののしりあい、怪我をするだけの大喧嘩を繰り返してきたのだ。今回の離婚も、むしろなるべくして迎えた結果だ。私は自室で自分の荷物を片付けながら考えていた。私は母に引き取られる。このアパ…

TAO

一人でいるスタジオはやけに広く感じる。紙コップの珈琲をすすっていると、背中の方で開いたドア彼が入ってくる気配がした。「まだいたのか」驚いた声で彼が言う。「うん。もうこれで終わりなんだなと思うとね」一時間前、私達はラストシングルの収録を終え…

毒針

彼女の恋人は暴力的だ。優しい彼女を殴り、時には心にまで傷を負わせたりする。それでも、男のことが好きなのだと、窓辺にたたずむ僕を見つめながら彼女は言う。僕には、とても理解できない。ある日のこと。偶然、僕の目の前に立っていた男の掌が何かの拍子に…

生きる場所

「パパ。ポチ、死んじゃったの?もう逢えないの?」朝早く息を引き取った愛犬の亡骸を撫でながら息子はしゃくりあげるように泣いた。私は息子の頭を撫でながら、そうだよ、と答えた。「でもね、ポチは消えてなくなったわけじゃないんだ」息子が振り返り私の…

まばたきの永遠 解説

この物語は、約五週間で書き上げた。普段なら半年から一年かかってダラダラ書くのだが、今作に限りどういうわけか筆が進んだ。当時、よしもとばななにはまっていた自分は彼女の作品を浴びるように読んだ。活字を浴びるというのはおかしな言い回しだが、とに…

まばたきの永遠 エピローグ

ホームへ電車が滑り込み、少し待つと、空気が抜けるような音と共に目の前のドアがひらいた。乗り込むと、中に他の乗客の姿はなく、閑散としていた。うっすらと照らされた明かりの下を歩き、私は適当な席を選んで腰掛けた。隣にボストンバックをのせ、窓へ目…

まばたきの永遠 最終話

ずいぶんとゆっくりとした朝だった。洗いざらしのTシャツとジーンズに着替えて居間へ入ると、紋太が視界に飛び込んできて驚いた。椅子へ腰掛けた紋太は、ずるずるとカップラーメンをすすっていた。それを見ながら、ちょっと珍しい光景だな、と私は思った。…

まばたきの永遠 第二十話

「俺、もう一度小説書いてみる」不意に紋太が言ったので、私は驚いて顔をあげた。夕食の、鳥の空揚げをはしでつついている時だった。「紋太、それって」体の内側から歓喜が押し寄せてくるのを感じながら、私はテーブルの向かいに座る紋太の顔を見つめた。彼…

まばたきの永遠 第十九話

あの夢は、夢であって夢ではなかったのだ。いや、あれはもう、ほとんど現実の出来事だったのではないだろうか。きっと、私たちと黒斗の、お互いに会いたいという願いの強さが、あの一晩にシンクロして出会うことが出来た、まさに奇跡の一夜だったのだと思う…

まばたきの永遠 第十八話

別に、泣きたくなかったわけではない。まして、悲しくないはずもなく、意地になったわけでもない。ただ、すぐ近くでいつまでも泣いていた伯母を慰めていたら、自分が泣き出すタイミングを逃してしまった。それだけのことだ。それに、心のどこかではまだ信じ…

まばたきの永遠 第十七話

いつになく、目覚めのはっきりした朝だった。私はベッドからとび起きるなり、まだかすかに綿飴の甘い香りが残る部屋を出て、階段を降りた。 居間には、誰もいなかった。紋太はバイトだから当然なのだけれど、いつもならキッチンに立っているはずの黒斗の姿も…

まばたきの永遠 第十六話

「びっくりした。いつからいたの?」ライブを終えて、私たちに気が付いた黒斗の第一声がそれだった。彼は本当に驚いた様子で、目を見開きながら笑った。まわりには、さっきまで黒斗の歌をきいていたうち何人かの女の子たちが、ちょっと距離を置いて声をかけ…

まばたきの永遠 第十五話

今年の夏は、どこか例年と違っている気がする。なにがどう違うのかときかれたら困ってしまうが、とにかくそう感じる。伯父の死や紋太の挫折。短い間に、衝撃的な事件が立て続けに起こりすぎたから、そのせいで少しナーバスになっているのかもしれない。だけ…

まばたきの永遠 第十四話

目をあけると、薄闇の中に天井が浮かんでいた。意識がなかなか現実に戻ってこなくて、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。 水が染み入るように、ゆっくりと思い出した。 そうだ。ここは紋太の家なんだ。あの日の川辺なんかじゃないんだな、と少し寂…

まばたきの永遠 第十三話

せっかく海まできたんだし、と言って、黒斗は車のトランクからギターを持ち出してきた。「何曲か歌おう。新曲もあるし」さっそく、私たちはそう言って敷物に腰掛けた黒斗へ拍手を送った。砂浜にクールボックスを持っていき、私はそこに腰掛け、紋太はその後…

まばたきの永遠 第十二話

まるでお祭りの時のように並んだ屋台から、やきそばと、焼きとうもろこしと、イカ焼きをそれぞれ三人分買って、私たちは食べた。普通に食べたら、てんでたいしたことのない味なのに、こういうところで食べると、何故か特別おいしく感じる。不思議なものだ。…