Close or Not 二章

裡里の葬儀は、ひっそりと行われた。空は仄暗く曇っており、空気は湿り気を帯びていた。昨夜降った雨で雪は消えており、道端の隅っこにだけ泥と交じった塊が、辛うじて残っている程度であった。参列者の姿も少なく、しかも訪れている者たちのほとんどが、見たこともない大人たちばかりであった。 僕が見た限りでは、大学の同級生は一人も見当たらない。「みんな、親戚なの」僕の隣りで肩を並べていた美里が、ぽつりと言った。姉の死に、どれだけ泣いたのだろう。喉はひどく乾いている様子で、トーンも低い。考えてみれば、僕は裡里の死から、まだ一度も涙を流していなかった。おそらく、これから泣く、ということもないだろう。僕の網膜には、裡里の屍が鮮明に焼き付いていた。あの殺され方は、殺す側の精神状態をもろに反映している気がした。犯人像については、この数日間、ワイドショーなどでも最高のネタとして扱われていた。「犯人は、まだ見つかっていないよね」久しぶりに着たスーツのポケットへ両手を突っ込んだまま、僕がきく。美里は、無言で頷く。長い髪の毛が、うつむきがちな彼女の顔を半分ほど隠している。「僕はもう帰るけれど、事件のことで何か分かったら知らせてもらえるかな」犯人に興味があるんだ、ということは伏せたまま美里にお願いすると、僕は自分の携帯番号を彼女に伝えてその場を去った。空からは、再び雨が落ち始めていた。久しぶりに大学へ顔を出すと、裡里についての話題はたえてはいなかった。特別、友達でもない同級生からは同情の言葉をかけられ、それをきっかけに事件の詳しい真相をきいてくる者もいれば、あからさまに興味本位で近づいてくる者もいた。中でもたちが悪かったのが、犯罪心理学のゼミに在籍している連中で、彼らは自分たちの見解を織り混ぜながら、事件の話をしつこくききたがった。こうなることが目に見えていたから大学を休んでいたというのに、ちっとも効果がなく、そのことに僕は内心で落胆していた。講義を受ける気持ちもすっかり萎えてしまい、とりあえず僕は教場の隣りにある喫煙所へ移動した。歩きながら煙草をくわえて火をつける。ため息が白い煙となって、吐き出された。長椅子の上の、ヤニで汚れた壁にかけられた丸時計が、三時を指していた。美里から連絡が来たのは、裡里の死後から三週間経った、深夜だった。覚め切らない意識で、条件反射のように携帯を耳に当てた僕は、一瞬だけど驚いた。小さなスピーカーから聞こえてくる声が、裡里のそれかと思ったのだった。しかしそんなはずはなく。妹の美里からの電話だと、幸い、相手に僕の勘違いを悟られるより前に気づくことが出来た。「もしもし」はりのない、消え入りそうな声で彼女は言った。「もしもし。どうしたの?」「ごめんなさい。こんな遅くに。どうしてもかけたくなってしまって」ひょっとして事件に進展があったのかと思ったのだが、どうやらそういうわけではないらしかった。僕はベッドで横になったまま、「いいよ」と答えた。いいわけではなかったが、こんな声をきいてしまったら、さすがにすぐに切ってしまうには忍びなかった。「眠れなかったの?」「・・・はい」あの、と口ごもりながら美里が切り出した。 「どうかした?」「・・・お姉ちゃん。すごい殺され方をしたんですよね?私、お姉ちゃんの遺体も見せてもらえなかったし、話もあまりきけなくて」 そういうことか。僕は体を起こすとベッドから出て、キッチンへ向かった。床の冷たさが、足の皮膚をかたくした。「ひどかったよ」
と、僕は言った。自分の声が、静かなキッチンに響く。冷蔵庫を開けて、残り一本となったシンジャエールを取り出した。明日にでも買ってこなければならない。「とにかくあれは、普通の死体じゃなかった。テレビでもやっていたけれど、あれはもう、彼女に恨みをもつ者か完全に狂っている者の犯行だと僕は思っている。詳しくは言えないけれど、あの姿はすでに人じゃなかった」 しばしの沈黙をおいてから、美里は、「そうですか」と返事を返した。それ以外に、なんて答えられただろう。「とにかく君は、あまりそういうことを知ろうとしない方がいい。僕は何度も人が死んでいるところを目にしているけれど、君は僕とは違うから」「はい」美里が頷くのが、見えるようだった。それから挨拶を交わして電話を切ると、夜の静寂が、また僕の狭い部屋を包み込んだ。ベッドへ腰掛け、目の前の炬燵を見つめた。ついこの間まで、裡里はここで眠ったり食事をとったり読書をしたりしていたのだ。だるそうにしながら。あの日、彼女が最後にここにきた日。彼女が途中で目を覚まさずに眠っていたら、無理にでも引き留めて一緒に食事をしたら、裡里は死んだりしなかったのだろうか。裡里は、あんな風に殺されたりはしなかったのだろうか。過去のことをどうこう考えても仕方のないことなのは分かっていたが、確かにやり切れない思いも胸のうちに、しこりのように残っていた。「眠いわ」そう言って炬燵で眠る彼女を見れなくなったのは、正直言って、つまらない。この事件に僕が疑問を抱いたのは、それからさらに一週間後のことだった。ささいなきっかけが、僕の心の奥底に小さな波紋を作り、疑問符を生んだ。その日、僕と美里は裡里の死体が放置されていた公園で顔を合わせた。彼女の家での様子を詳しくききたくて、僕から連絡をしたのだった。その日は珍しく天気がよく、久しぶりに太陽が顔を出していた。しかしあの事件以来、公園に人影はなく、あったとしてもせいぜい、やじ馬や取材にきている人間くらいであった。
「ここで、お姉ちゃんが死んでいたのね」ベージュのコートに身を包んだ美里は、姉の死体が立てられていた砂場を睨むようにしながら憎々しげに呟く。「そうだよ」僕は煙草をくわえながら、答えた。「そんなことよりも、美里ちゃん。裡里は家ではどうだった?誰かにねらわれているような様子はなかったのかい」ないわ。美里は首を振る。「お姉ちゃんはいつも寝ていたから」
「・・・そう」外に変わったことはなかったか。自宅に遅く帰ってきた日はどんな感じだったか、郵便物で何か届けられたか、家族に不審な点はなかったか、とにかくなんでもいいから教えてほしいと頼んだのだけれど、収穫はなかった。 長い時間を外で過ごしたため、僕らの体はすっかり冷えきってしまい、とりあえず近くのコンビニへ行くことにした。僕らの関係で共通点といえば裡里しかなく、なので移動の最中も裡里の話ばかりだった。だけどそれは、傷口にカラシやワサビや香辛料を塗りたくるような、さらに痛みを広げる愚かな行為でしかなかった。コンビニのドアを押し開く頃には、僕らはすっかり憂鬱になってしまっていた。僕は晩に食べる弁当とホットコーヒー二本とジンジャエールが五本入ったカゴを左手に持ちながらレジに並んだ。僕の前に立つ美里は喉飴をカウンターに出しコートから、財布を取り出している。左手に持たれた草色の財布をやけに使いにくそうにしながら小銭をつまむ指先が肩越しから見えた。「・・・」お先に、と笑顔で美里が外へ出た。会計を済ませて彼女の後を追うと、美里は気の抜けた横顔で力無く立っていた。きっと軽く押しただけで、あの背中は簡単に倒れてしまうだろう。あの晩、裡里が殺された日にあった美里の明るさは、もう影すら無い。恋人を失った男と、姉を無くした妹。第三者から見れば、そんな感じで、間違いなく同情の的となりそうな構図が出来上がる。だけど僕の胸の内には、小さな疑問符が浮かび出していた。それは普段なら、別に気にするようなことのない、ささいなことが原因だった。僕は、僕が店から出ていることに気が付かないでいる彼女に向かって声をかけると同時に、二本買った内の缶コーヒーの一本を放った。群青色の缶は、低い放物線を描くようにして美里へ届いた。慌てて腕を伸ばしてそれをキャッチした彼女の右腕、コートが下がって現れた細い手首には、真新しい白い包帯が巻かれていた。普段は気にならない時計の針の音が、やけに耳につく。一時間前からベッドに入っているというのに眠くならない。むしろ、闇の静けさも手伝って、鮮明になった思考回路が僕の意識から離れたところでシャカシャカと働いていた。毛布と掛け布団の中で、何度も寝返りを打ちながら、枕元から同じ目線にあるコンポを見つめた。頭の中で、裡里を思い出していた。彼女について知っている限りのことを、想像上の棚に並べて、その下に美里の情報を並べた。何度考えても、同じ答えにしか行き着かない。だけとそれは、あまりに大胆な予想であり、もしも本当にありえることならば、この事件の結末は誰も予想していない場所へ落ち着くことは間違いなかった。覚悟を決めて、枕元に置いてある携帯電話を手に取る。電源を入れると辺りがぼうっと明るくなり、僕は目を細めた。

                     続く