まばたきの永遠 第八話

朝起きて、洗面所で顔を洗って歯を磨き、はねた後ろ髪を水で濡らしてから居間へ入ってきたとたん、電話が鳴った。慌ててテーブルのうえの子機を取り上げて、「もしもし」と言うと、受話器の向こうから、きき覚えのある声が返ってきた。まるでお祭りのようにかん高くて忙しない口調。まだ覚めきらない頭でも、それが誰であるかすぐに分かった。黒斗のお母さん。つまり私の伯母だ。彼女は、出たのが私だと気づくなり、「紬ちゃん久しぶり!」と、再会を果たした女友達のようにはしゃいだ声を出した。「佐江伯母さん。お久しぶりです。お元気でしたか」受話器を両手で握りながら、私は言った。伯母の言うとおり、電話で話をするのさえずいぶんと久しぶりのことだ。最後に会ったのはいつだったか、考えてみても思い出せない。それくらい遠い記憶のことだった。
「元気も元気。最近なんかしょっちゅうプールにいったりしているわよ。紬ちゃんはどうなの?大風邪ひいたってお母さんからきいてたんだけど。もういいの?」「はい。もうすっかり復活しました」伯母の声に頷きながら、私はソファーへ移動した。テレビをつけて、腰をおろす。「そう。それはよかったじゃない。夏風邪はひどいからね。気をつけるのよ」「はい」「そうそう。ねぇ、家の黒斗、そこにいるかしら。ちょっと代わってほしいんだけど」「黒斗、ですか」言われて気が付いた。そういえば、いつも居間へ入ってくると黒斗の笑顔がキッチンの風景に当たり前のように溶け込んでいたのに、今朝は見ていない。 ちょっと待ってくださいね、と伯母に言って、私は受話器を手にしたまま玄関へ走った。 黒斗の靴が見当たらない。「もしもし」と居間へつながる廊下を戻りながら、私は言った。「彼、出掛けちゃってるみたいです」「あら、そうなの」ため息をつくように、伯母は言った。急用だったんだろうか。「私でよかったら伝えておきますけど」「ううん。急ぎじゃなかったんだけどね」とすっかり声を落として伯母は言った。「ただ、ほら家の黒斗は普通の人より体が弱いものだから、そっちに泊まりにいっている間も、ちゃんと定期検診とか受けているのか心配になっちゃって」ああそうか。そういうことか、と頷きながら、私は再びソファーへ腰を沈めた。伯母がそんなふうに心配するのも無理はない。黒斗は外見がとても虚弱そうに見えるが、実際、体もそれほど強くはないのだった。小さかった頃はそうでもなかったという話だが、中学にあがってからは、めっきり体が弱ってしまったということを、以前、黒斗本人からきいていた。「夜更かしをするとね、次の日は呼吸が苦しくて、いつも肺の中がからっぽな気がしたり、太陽の下に長くいると意識が滑るように遠くなったり、全力疾走すると、心臓が止まりかけたりするのが自分でもわかるんだ」こともなげな様子で黒斗が話す度に、きいている方はいつもぞっとしたものだ。とにかく、そういう理由から黒斗は時々、病院へ検診を受けにいっているらしかった。「最近のあの子、元気でやっているかしら」伯母の不安そうな声に「はい。毎晩早く寝てるし、ご飯もちゃんと食べているし、大丈夫です」と私は答えた。そして、今朝から黒斗の姿が見えないのはひょっとしたら病院へいっているのかもしれないな、と思い、そのまま伯母へ言ってみた。 すると受話器の向こうで、ふっと笑うのを感じた。「そうね」と彼女は言った。「多分、紬ちゃんの言うとおりだわ。うん。ごめんなさいね朝早くから電話しちゃって。黒斗のことよろしくね」「はい」そうして、私たちは電話を切った。子機を戻しにいくと、さっきは見つけなかった、テーブルのうえのそれに気が付いた。きちんと盛り付けられたベーコンエッグに、ポテトサラダ。そしてその隣には、黒斗の字で書かれたメモがおいてあった。
『おはよう。ちょっと出掛けてきます。朝ごはんは作っておきました。冷蔵庫にうどんが入っているから、ナベのつゆでゆでて食べて食べてください』
 あまりにも彼らしくて、私はその書き置きを手に持ったまま笑ってしまった。本当に、とことん面倒見のいい人だな、と思う。女だったら、さぞかしいい主婦になれただろう。Tシャツとジーンズに着替えて、さっそく黒斗の作ってくれた朝食を食べた。電話が鳴ったのは、汚れた食器を流しへ運んでいる時だった。また伯母がかけてきたのだろうか。そう思って電話に出てみると、違った。きいたことのない、若い女の人の声が、「もしもし」と、やけに消え入りそうな細い声で言った。もしもし、と私も言ってみる。微妙な沈黙が滑り込んだ。「あの、どちら様ですか」と尋ねると、その人は妙におどおどした様子で、こちらは大黒さんのおですよね、と言った。どこからかけているのだろう。後ろが、がやがやと騒がしい。たくさんの人の笑い声や話し声、それに混じって音楽もきこえてくる。どうやら勧誘の類いではなさそうだ。「そうですけど」となんとなく身構えながら、私は答えた。「紋太に、用事ですか?」すると、電話はきた時と同じように唐突に切れてしまった。なにがなんだかさっぱり分からず、私は首をかしげながら電話をおいた。 日が傾き、西日が家の中へ差し込んできた頃、バイトを終えた紋太が帰ってきた。 さっそく今日きた電話について教えてやると、彼は、ふぅん、とだけ言ってさっさと自分の部屋へあがっていってしまった。

                  続く