まばたきの永遠 第六話

たっぷり入った湯船に体を沈めると、疲れが足元から溶け出していくようだった。そっと目をとじて頭を横たえる。さっき三人で見たあの夕焼けが、日光写真のようにまぶたの裏側にくっきりと焼き付いていた。あの時、私は自然の壮大さに感動する一方で、実は隣に立つ紋太のことを考えていた。彼の大切な夢。いつか小説家になりたいという、ちぎれそうなほど真っすぐな希望。自分の目標を熱っぽく語るあの頃の彼の光るような顔を、私は今でもちゃんと覚えている。それなのに昨晩の紋太は、小説を書くことをやめた、ときっぱりと言い切った。私には、どうしてもそれが信じられなかった。昔から、あれほどがんばっていたのに、そんなに簡単に投げ出せるものだったのだろうか、彼の夢は。「いつか三人で、ひとつのものを作り上げよう」私たちがそう約束したのは、もうずいぶんと昔のことになる。忘れはしない。紋太と黒斗が中三で、私が中二の、夏だ。あの頃の私たちは、いつも未来にあるだろう希望に夢をふくらませていた。それこそ、押せば現実は動き、叩けば障害は崩せると本気で信じていた時期だ。最初に言い出したのは、紋太だった。夏休み。青い空の下。三人で海の見える道を歩きながら。俺は将来、絶対に小説家になる。そしたら、歌が得意な黒斗は、俺の物語にぴったりな音楽をつけてくれよ。紬は絵がうまいだろ。だから、もっともっと今よりもうまくなって、俺の小説の表紙をデザインしてくれ。その日、私と紋太と黒斗は約束した。あれはもう、誓いだったはずだ。それなのに。やり切れない思いに胸を痛めながら、私は目を落とした。湯気の立ちのぼるお湯の表面が、てらてらと天井の明かりを乱反射させている。時間の流れは、万物に共通している。自然にも、生にも、死にも、そして私たちの気持ちにまでも。だから今日までの過程のどこかでつまずいて、大切にしていた夢を諦めてしまっても、それはしかたのないことなのだと思う。頭ではちゃんとわかっているのだ。紋太は軽き気持ちで夢を捨てたんじゃない。 きっと、迷い、悩み、痛みの果てに選んだ道だったに違いない。けれど、どんなに自分にそう言い聞かせても、私の心はやっぱり納得出来ずにいた。どうしても、やり切れないものが、しこりとなって胸の奥に残っていた。
お風呂あがり。私は冷蔵庫から缶ビールとビーフジャーキーの袋を取り出して、それを持ってソファーへ移動し、どっかりと腰を沈めた。あれこれ考えて、いつもより長湯してしまった分、冷えたビールの一口目がおいしかった。なにげなくリモコンでテレビをつけると、よく分からないバラエティー番組がやっていた。つまみの袋をあけて、再びビールをぐびぐび流し込む。と、背中から黒斗の声が聞こえて、私は振り返った。「紬って、おいしそうに飲むね」と言ったのだった。「ごめん。お風呂、先にいただいちゃった」「別にかまわないよ」黒斗は冷蔵庫から取り出した麦茶をコップにつぐと、私の隣へきて腰掛けた。歯を磨いてきたのか、かすかなミントの香りが鼻先をかすめる。「今日の夕焼け、すごかったね」テーブルにおいてあるビーフジャーキーを食べながら、黒斗は言った。私は頷きながら、「あんなの初めて見たよ」とビールを流し込んだ。「きっと、街じゃ見れないよ。建物が多すぎて」パジャマの両ひざをたて、ビーフジャーキーへ手を伸ばす。「そういえば紋太は?」思い出したように、私は黒斗にきいた。「二階だよ。音楽聴いてる」「ふぅん」「さすがの彼も疲れているみたい」「お墓参りもしたしね。明日からまたバイトだろうし」
 そうやって会話を交わしていると、ふとした瞬間、落とし穴みたいな沈黙が突然訪れて、不安になった私は隣に目を向けた。黒斗は笑っていた。「どうかした?」と尋ねると、彼は小さく首を振った。けれどその表情は、明かになにかを隠している。なによ、言ってよ、と何度も返事を促すと、黒斗はようやく遠慮がちに口を割った。 「久しぶりに紋太と会って、どう?」その質問の含みにどきりした私は、「どうって。別に」と何げなさを装って答えたものの、その声はかなりうわずっていた。とたんに、なんだかばかばかしくなって、「嬉しかった」と言い直した。どうせ黒斗には嘘は通用しないし、こういうふうにきいてくるということは、私の気持ちも知っているということなのだろうし、だったら今さらなにを言ってもなんの効果もない。白状しよう。私は、以前から紋太のことが好きだった。異性として、特別という意味だ。世間一般に言われる、近親相姦というやつだ。言葉に出せば生々しいけれど、しかたがない。恋は恋。たまたま好きになった相手が、いとこだったというだけの話だ。第一、恋なんて流れ弾みたいなものだ、と私は思う。理屈なんていっさい関係ない。運のように、突然ぽっと沸いて、熱に浮かされる。私も同じだ。気が付いたら、彼の存在がアメーバーのように増殖し、いつしか私の心を満たしていた。隣に座る黒斗の視線を頬に感じながら、私はビールの残りを飲み干した。

                   続く