まばたきの永遠 第四話

自分の部屋へ戻ると、いっぺんに暇な時間が訪れた。紋太は朝早くから本屋のバイトへ出て行ってしまったらしいし、伯父の墓参りは明日、彼のバイトがちょうど休みなので、みんなで行こうということになっていた。 とりあえずTシャツとジーンズに着替えて、財布を片手に部屋を出た。階段を降りかけた足を止めて、ふと振り返る。私の部屋の隣。きっちりとドアのしまった紋太の部屋。ちょっと前だったら、彼が留守の間でも勝手に侵入して読みたいマンガや小説を拝借したものだが、多分そういうことはもう出来ないんだろうな、と私はぼんやり思った。しかし私が紋太の部屋を振り返ったのは、ふいに彼の壮大な夢を思い出したからだった。 そういえば、彼はまだあの約束を覚えているのだろうか。自分の夢を追い続けているのだろうか。少しだけ、気になった。「あれ、出掛けるの?」居間へ戻ると、ちょうど黒斗が洗い物を終え、食器を棚の中へ戻しているところだった。 私は財布を片手に、うん、と頷いた。「それにしても、そのTシャツすごいね。ヒマワリみたいな黄色だ。紬の腕の細さと白さが際立っているよ」「こんなごきげんな格好なんて、夏しか出来ないでしょう」「本当だね」「黒斗も一緒に行かない?デートしよう」「ごめん。無理だよ。洗濯物があるし」黒斗の指さした方へ体ごと振り返る。 窓際に並ぶ白っぽい大きなカゴ。その上には洗いたてのあれこれが山になって、外の景色に混じって輝いていた。「よし。私も手伝うよ」名案だと思ったが、彼は首を横に振って、「いいよ。紬は遊びに行っておいで」と譲らなかった。「洗濯物干すの好きなんだ、僕」そう言ってはにかむ黒斗の笑顔に、どきり、とした。彼は時々、こんな不思議な顔をする。 きちんと目をこらさなければ、意識して見ていなければ、次の瞬間に、ふっと消えてしまいそうな透明な笑顔。急に怖くなって、私は黒斗の手を取り、そこにある確かな存在を確認した。「お土産、なにがいい?ついでにお使いもしてくるよ」「スイカ
ぱっと明るい顔をして、黒斗が即答した。スイカか。そうだ。そういえば彼はスイカがものすごく好きだったことを思い出した。「了解。スイカだね。よし。大きいのを買ってこよう」「いや。小さいのがいいよ。その方がきっと甘いだろうしさ」今度の笑顔は、ちゃんと線のあるものだった。私は安心して、家を出た。戻ってきたのは、日も暮れた頃だった。薄暗い空の下、スイカの入った袋を両手にふら下げながら帰宅した。「ただいま」居間へ入ると、キッチンに黒斗の姿はなく、代わりに紋太の背中を見つけた。ソファーに座っていた彼は、とてもだるそうに両足を投げ出して、テレビを見ていた。「おかえり」紋太は前を向いたまま、疲れた声を出した。そんなにきついバイトなのだろうか。持っていた買い物袋をテーブルの上へのせて、私は冷蔵庫をあけた。確か、昨日の晩に黒斗が麦茶を作っておいてくれたはずだ。ずっと空気の乾いている外に出ていたら、喉が渇いてしかたがない。あった。牛乳の隣にある、茶色い液体の入ったガラス瓶。それを取り出し、そっとドアをしめようとしたところで、手を止めた。ふと奥にあるそれに気が付いた。半分になって、上からラップをかけられた、大きなスイカがごろんと横たわっている。「あ。スイカだ」思わず声に出すと、後ろから紋太が、「黒斗が好きだからな。買ってきた。紬も食っていいぞ。でかいから」と言った。「私も買ってきちゃったのよ」スイカを交互に眺めながら私は苦笑した。「じゃあ、今日の晩飯はスイカだな」あっさりと紋太は言った。「半分、紋太が食べたの?」「そうだよ。さっき食ったばっかり」「すごいね。おなかいっぱいでしょう」驚いて尋ねると彼は、「別に。喉渇いていたからちょうどよかった。甘くておいしかったよ。スイカって渋いとかすっぱいっていうのがないからいいよな」としみじみしながら言った。結局、私の夕飯は本当にスイカになった。まぁ夏だし、たまにはこういうのもいいかもしれない。でも残りを全部片付けるのは無理っぽかったので、さらに半分に切ったのを皿にのせ、スプーンで食べた。それでもたいらげた後には、さすがに限界がきた。赤い汁と種の残った食器を流しへ運び、そのままよろよろとソファーまで行って、紋太の隣に腰を並べた。さっき、彼がとてもだるそうにしていたのは、バイトのせいなんかじゃなかったんだな、と思う。網戸から流れてくる、冷えた風が心地よかった。私は紋太みたいに床へ両足を投げ出すと、「黒斗は?」彼は真剣な横顔で音楽番組を見ながら、「だいぶ前に出掛けた」と、にべもなく答えた。「毎晩、駅前の広場で歌ってるんだ」「へぇ」歌。そうか。黒斗は続けていたんだ。嬉しくなって、思わず私は笑顔を作ってしまった。 黒斗は歌を歌える。ただの歌じゃない。メロディーも歌詞も自分で作って、しかも音まで全てオリジナルで打ち込んでしまう。ギターも、ピアノも、シンセサイザーも。一曲のうちで表現出来るものは全て、あの細くて白い両腕が作り上げるのだ。不純物の一切含まない、完璧な純度。彼の作る音楽は、まさしく音に姿を変えた大島黒斗そのものだった。時折彼が見せる笑顔のように透明で、繊細で、柔らかくて、伸びやかで、それでいてしっかり芯の通った独立した世界。小宇宙。きっと、ああいうのを、才能と呼ぶのだと思う。きれいな顔立ちで、性格もよくて、さらに人をひきつけるだけの音楽を作れるなんて。天は二物を与えず、なんて言うが、神様は三物、四物なら平気で与えてしまうものらしい。「歌を歌って、金をもらっているんだ」と紋太は言った。「ここの家賃に」「そうなの?」ソファーから背中を浮かせて、私は尋ねた。 「ああ。親父がいた時はよかったんだけどな。今度から、俺一人で生活していかなきゃならないし。いくら財産や保険があると言ってもさ、そればかりに頼っていたらだめだろ。大学の夏休みの間は、バイトの時間を増やしているからいいけれど。やっぱり先を考えると、ちょっとくらいは払ってもらう」「どのくらい払うの?」紋太は私の顔を見るなり、ぶっ、と吹き出して言った。「そんな顔するな。嘘だよ。嘘。いらないって黒斗が勝手に払おうとしているだけだ。律義だろ」よっぽど私の顔がおかしかったのか、彼は腹を抱えたままげらげらと笑った。血も涙もない笑い方だった。 なにさ、と唇を尖らす。一瞬、自分の財布にいくら入っていたか本気で考えてしまった。 黒斗が音楽を続けている。改めてそう思うと、なんだか胸の奥が、すっぱいものをかじった時みたいに、キュッと痛みを残して縮むのが分かった。とても嬉しかった。きっと彼は、あの約束を覚えているのだ。でも、紋太の方はどうなのだろう。彼も自分の夢を、そして私たちのあの日の約束を覚えているのだろうか。三人の誓いを守って、ちゃんと続けているのだろうか。ようやく笑いをおさめた紋太にそのことを尋ねると、彼は一瞬表情をこわばらせて、私から視線をもぎ離した。そして、なにも答えずテレビに向かったその横顔は、もう笑ってはいなかった。 きいてはいけなかったのかもしれない。部屋の温度が一度か二度下がったような居心地の悪さを感じながら、私も口をつぐんで、見たくもないテレビに集中することにした。「やめたよ」不意に言われて、驚いた私は紋太へ目を戻した。彼は、こっちを見てはいなかった。多分、テレビも見ていなかったと思う。ただ前をむいていた。私から目をそらすために。紋太は、もう一度、呟くように言った。「小説はもう書いてない。やめたんだ」

続く