まばたきの永遠 第三話

目覚めのいい朝だった。枕の上でまぶたを持ち上げたとたん、見慣れない天井が視界に飛び込んできて一瞬驚いたけれど、すぐに思い出した。そういえば、昨日から紋太の家へ泊まっているのだ。起き上がって、ベッドから足を降ろす。床のひんやりとした冷たさが、裸足に心地いい。窓の前まで行って、カーテンを一気に引きあけると、柔らかい光が真っすぐに射し込んだ。窓から顔を突き出して、目を細めながら青空を仰ぎ見る。うん。今日も文句なしの快晴だ。ごきげんで部屋を出て、階段を降りて、居間のドアをあけた。キッチンには昨日と同じように黒斗の姿があった。「おはよう」私の顔を見るなり、彼は爽やかな笑顔で言った。「おはよう。朝早いね」声に出すと、私の喉はガラガラしていた。椅子をひいて、腰掛けるなりテーブルに突っ伏す。顔の前に水の入ったコップが置かれて、私は目だけで黒斗を見上げた。「紬ってば、声が変だよ。まだ風邪も完治していないんでしょう」「うん。なんだかまだ治ってないみたい」ありがとう、と付け足して、私はコップの中の水を一息で飲み干した。冷たさが、内蔵を走り回るように巡って、やがて、すとん、と落ち着いていく。喉元が、痛いくらいすっきりした。「目、覚めた?」フライパンに火をかけながら、黒斗が言った。胡椒のいい香りがする。私は立ち上がって、流しにコップを戻すついでに、彼が作っているものをのぞき込んだ。 ベーコンエッグだ。まわりがこんがり狐色に染まっていて、とてもおいしそう。「これは紬の朝食だよ。顔を洗っておいで。その間に食べられるようにしておくからさ」「うん」居間を出る時、私はちょっとだけ黒斗の方を振り返ってから、洗面所へ向かった。湯気の立つ、紅茶。狐色のベーコンエッグ。同じように狐色のトースト。お手製ドレッシングがかかったサラダ。「なんだか完璧な朝食メニューだ」黒斗が並べてくれたものと向き合うなり、嬉しくなって感嘆の声をあげた。向かいの椅子に腰掛けて、紅茶をすすりながら黒斗は、「そうでしょう」と言うように、顔中を笑みにした。実際、味の方も最高だった。これから、私が同じ材料で料理をする時には、きっと申し訳無いと感じながら作ることになるだろうな、と思いながらいただいた。「紬。紅茶、いい香りしない?」「うん。柑橘系の匂いがする。ハーブティーなのかな」
 カップの白い湯気に鼻を近づけながら、私は言った。包み込むような柔らかい香り。心の中にある固いものが、すっとほぐれていくような感じがする。「それね、裕輔伯父さんが育てていたハーブなんだよ。さっき摘んだばっかり」「え、伯父さんってそういう人だったの」驚いて、私は目を丸くした。伯父には、そういうことが一番似合わないと思っていたのだ。何かの栽培や、ペットを飼うことや、育児だってそうだ。事故で母親をなくした紋太を、彼は男でひとつであそこまでりっぱに育て上げた。それだけでも奇跡だと、私はずっと思っていたのに。「ちょっと、意外」カップの中身をまじまじと見ながら、私は呟いた。黒斗の、ふっ、と笑う気配がした。「そうでもないよ。あの人は、僕らが思っているとおりの人さ」私は目をあげた。「真面目なところ?」「合理的なところだよ」黒斗は苦笑しながら続けた。「このハーブだって、こうして紅茶やスパゲッティーやステーキなんかに使おうと思って育てていたらしいよ。紋太が言うにはね。ほら、ハーブって強いから。あまり手がかからないし増殖も早いし」なるほど。もっともな理由に納得して、私は頷いた。うん。それなら伯父らしい。黒斗は残りの紅茶を飲み干すと、立ち上がり、食べ終わった私の食器も一緒に流しへ運んでくれた。ありがとう、と言って、私も立ち上がる。その際、ふと右手にある壁掛け時計が目に入った。九時半。なんだ。随分ゆっくりとした朝食だったんだな、と思う。この時間にまだパジャマ姿でくつろげるなんて、日曜日みたいだ。洗い物を始めた黒斗の背中にそう言ってみると、彼は半分だけ振り返って、「夏休みはそういうものでしょう。そういえば、紬のそのパジャマ、かわいいね。淡いブルーをベースにした、白い水玉模様。いいセンスしてるよ」
と言ってまた元の方へ向き直った。「なんだか、お父さんのをいたずらして着ている子供みたいだ」水音に紛れてきこえてきたその余計な一言に苦笑しながら、私は庭先の窓へ向かった。さっきごちそうになったハーブを見てみたかった。全開になった窓の周りは夏空の落とす光であふれていて、眩しかった。ジャングルみたいな濃淡の鮮やかな緑。ささやき声みたいな微風。それに混じった水と砂と太陽の香り。そういうひとつひとつを確認しながら、私は窓際に立って、視線を巡らせた。ハーブの花壇は、すぐ手前にあった。いったんこうと決めたら、地平線のように真面目な伯父のことだ。生前はきちんと手入れしていたのだろうけれど、今そこにあるのは、ただの雑草が囲われているようだった。風にかすかに揺れていた。緑の、愛らしい小さな草。仕切るために並べられた、均等な大きさの石。それがあまりに伯父らしくて、私は少しせつなくなった。

                   続く