まばたきの永遠 第二話

バスを降りると、熱気がすごかった。地面から沸き立つような乾いた空気。呼吸をする度に肺がこげつきそうだ。こっちは暑いなぁ、と一人で呟きながら、私はボストンバックを肩にかけて歩きだした。 ついこの間まで涼しかったのに、今でこの気温だと、本格的な夏が到来したらいったいどうなるのだろう。私は暑いのが苦手なので、想像しただけで泣きたくなってしまった。バス停から少し歩いて、最初の角を右に折れる。そこからひたすら真っすぐに歩き続けて、突き当たりの丁字路を左に曲がった先に伯父の家、大黒家がある。一軒家で、庭付きのけっこういい家だ。やっとのことたどり着いた時には、背中や額にじっとりと汗がにじんでいた。私を待っていたように立つ喪中の札が、胸の奥を締め付けた。気を取り直して門をくぐると、左手の、緑のたまり場みたいな庭に面した窓が、全開になっていることに気が付いた。家に誰かいる。きっと紋太だ。私はわくわくしながら、玄関の前に立ち、ドアへ手をかけようとした。
 その時だった。まだ触れてもいないノブがひとりでに回って、すっとドアがひらき、そこから知っている顔が突き出した。不意なことに驚いた私は、手を引っ込めるより先に息を飲みこんだ。
「よぉ」と紋太は言った。二年ぶりの再会を匂わせない、あっさりした口調だった。「ま。あがれよ」私は激しくなった動悸を抑えながら、うん、と頷いた。中へ入るなりボストンバックを降ろして、靴を脱ぐ。直射日光がないぶん、こっちの方がひんやりと涼しい。「どうして私がくるの分かったの?」紋太の背中に私は問いかけた。なにもかもがあまりに変わっていない様子に、なんだかだまされているような気がしてくる。彩りも匂いも、そしていとこの彼も。相変わらず溌剌としていて、髪が短くて、光るような真っすぐな瞳を持っている。私の記憶のまんまだ。「黒斗が言ったんだ。紬がくるんじゃないかって。だから玄関まで迎えにきた」と紋太はにべもなく言った。「黒斗もきてるの?」「きてる。親父の葬式から、ずっと家に泊まっているんだ」ああ、なるほど、と私は納得した。彼なら、私がくることを事前に察知してもおかしくない。大島黒斗は、昔から不思議なくらい勘が鋭かったから。一時期、本当の彼は超能力者なんじゃないかと本気で思ったほどだ。今だって、その疑いは完全に晴れてはいない。紋太に続いて居間へ入ると、キッチンに立つ黒斗の姿を見つけた。彼は白い半袖のワイシャツに、褪せたジーンズという爽やかないでたちだった「やぁ。紬はコーヒーでよかったよね」まったく。紋太といい、この黒斗といい、私のいとこはまるで昨日も会ったような口調が得意らしい。私は荷物をテーブルの椅子へ降ろして、「うん。砂糖は二つね」と頷いた。紋太はテレビの前のソファーにどっかりと腰を沈めて、まぁ、お茶を待っている間に親父の仏壇見てやって、と部屋の隅を指さした。 首をねじ曲げると、前回きた時にはなかったものが、そこにはあった。
 黒光りした、りっぱな仏壇。しずしずと歩み寄る。真ん中には、伯父の白黒写真が飾られていた。まだ元気だったころの、自信と威厳にあふれた顔が睨むように私を見つめ返してくる。「お前、親父のお見舞いにきてくれたんだろ。紬がきたぞって喜んでいたよ」振り返ると、テレビを見ている紋太の背中が言った。「ありがとな」うん、と頷いて、私は向き直った。伯父が死んでしまったのは、きっと仕事の頑張りすぎだろう。性格が真面目すぎたのかもしれない。本来なら、息を抜かなければならなかった所を見逃して、ひたすら同じ速度で人生を走ったから、他人より早く、ゴールのテープを切ってしまったのだ。でも、後悔はなかったんじゃないだろうか、と私は思う。彼は、自分の思惑どおりのことを私たちに伝えて眠ったのだから。
「なぁ紬。人が人に最後に教えれることっていったい何だと思う?」伯父が私にそう質問したのは、もう何年も前のことになる。うだるような夏の暑さの中、海岸沿いの道路をドライブしている時に交わされた会話の一部だ。その頃の私は、夏休みになるといつも着替えの入ったボストンバックひとつを従えて、大黒家に入り浸っていた。そこにいとこの黒斗も加わって、夏に三人がそろって生活することは、もう毎年の恒例だった。私たちの関係は、いつも正三角形のように均等で、完璧で、そして眠りを誘うような心地よい優しさがあった。唐突な伯父の質問に、私は首をかしげた。「わからないよ」伯父から買ってもらったかき氷を食べながら、私は運転席へちらりと視線を向けた。運転席側の窓。防波堤をわずかに越えて、太陽を乱反射させる海が見えた。「分からないか」ほんの少し笑みをにじませながら、伯父が言った。うん、ともうひとつ頷く。正直言って、ちっとも考えつかなかった。「人が最後に人に教えられることは、本当に大切なことなんだと俺は思う。それこそ、文字通りこの身をもって教えられることだ」そう言う伯父の横顔を見ていたら、わけもなく背筋が寒くなって、私はうつむいた。「いつか俺が死ぬ時は、ぜひともお前らに教えてやりたいよ。俺が無残に朽ちて行く様を見て、お前らに、息子や黒斗や、紬、お前にも、死ぬということの恐ろしさと生きているということの大切さ。素晴らしさ」突然、なにを言い出すのだろうと不安になって、私は伯父の言葉を遮ろうとした。けれど、何故か喉が詰まって声に出せなかった。どうしようもなくて、私は、ただ黙したまま、手元のかき氷に視線を落としていた。「俺は、人は最期になればすべて許されるものだと信じている。そして、今言ったようなことを伝えるのが、死ぬ者の最後の努めだとも思っているんだ」

 そう。そして彼の願いどおり、私は伯父の死から多くのことを学んだ。恐怖も悲しみも痛みも喜びも、伯父が意図する所は全て。多分、それは紋太と黒斗も一緒だと思う。結局、これは人生を独走した伯父の一人勝ちみたいなものだ。確信犯だ。仏壇の前で、正座をしながら手を合わせていると、キッチンから笛吹きケルトのけたたましい音がして、私は目をあけた。コーヒー飲むよぉ、と黒斗がゆったりとした口調で言った。「お前、髪短くなったな」椅子に腰掛けるなり、紋太が言った。その唐突な切り出しかたは遺伝だろう。「うん。変かな」「いや。ロングより、セミロングの方が似合う気がする。俺は今の方がいい」「ありがとう」私は、嬉しくてふわふわと笑顔になった。「あれ、そういえば紬は泊まっていくんだよね」湯気の立ちのぼるカップ黒斗から受け取って、私は頷いた。そして、隣の椅子に乗っているボストンバックを、ぽん、ぽん、と叩く。
「久しぶりにね、ちょっと長くここに滞在しようと思って、着替え、いっぱい持ってきちゃった」

                   続く