まばたきの永遠 第一話

                プロローグ

 青い景色を、煙る霧がしっとりと濡らしている。
 静かだ。まるで、私だけ別の世界へ紛れ込んでしまったみたいな、もしくは、世界が眠るほんの一瞬の狭間に、不意に私だけが目覚めてしまったような、とても不思議な朝だった。それとも、生まれたばかりの今日というのは、いつもこんな感じなのだろうか。真夜中、誰にも気づかれずしんしんと降り積もった、少しも踏み荒らされていない真っ白な雪景色に似た幻想的な静寂。あまりに今の空気が完璧すぎて、この場所が、あと数時間もしないうちに人波であふれかえるのが、ちょっともったいない気がする。プラットホームに、私以外の客の姿はない。嘘っぽいくらい、がらん、としている。なんだか、貸し切られているようだ。デジタルの腕時計は、薄闇の中でもはっきりと五時を知らせていた。そろそろ始発の時間だ。と、空気を裂くようなベルが、寝る子をたたき起こすように突然鳴り響き、空へ細く高く昇っていった。私は足元に置いてあるボストンバックを右手に持って、列車が入ってくるのを待ちながら、いい夏休みだったな、とぼんやり思った。歩いている間は永遠のようでいて、ふと振り返れば全て一瞬の出来事のような、二度とない、最初で最後の輝かしい夏だった。 そして、その一時の思い出は、この小さなバックにしっかりと詰め込まれている。私は、面倒臭そうにゆっくりとホームへ入ってくる列車を見ながら、昨日までの夏の日々をそっと思い返していた。

第一話

伯父が亡くなったのは六月の中頃。そろそろ風の中にも、初夏の匂いが混じり始めた季節だった。末期癌だった。伯父が入院してから、一度だけ見舞ったことがある。あれは五月の初め。春の陽気がとても暖かくて、よく晴れた日だった。私は飛行機とバスを乗り継ぎながら、ようやく伯父のいる病院へたどり着き、自動ドアをくぐった時にはもうへとへとだった。手荷物は、ここへくる途中で買ってきた果物の詰め合わせだけ。日帰りのつもりだったので貴重品は、ジーンズのポケットに入った財布ひとつ。全財産も帰りのチケットも、全てそれに収まっていた。日曜日ということで、院内には人影も少なく静かだった。三階ナースステーション前に、伯父の病室はあった。どうやら六人部屋らしい。私は足を止め、ネームプレートを見つめた。大黒裕輔。一番下に書かれた伯父の名前を確認してもなお、私は中へ入っていくことをためらった。こんな時、はたしてどんな顔をしていけばいいのだろう。伯父がもう長くないことは、事前に母からきいていたので、この場所に立ってから、きいてしまった自分にえらく後悔した。なにも知らないまま、盲腸かなんかだと思って見舞ったなら、少なくともここで悩むことはしなかったはずだ。その後の衝撃は、きっと計り知れないものだっただろうけれど。 結局、きっかけは伯父の一声だった。開けっ放しになったドアの横で、いつまで経ってももじもじして入ってこないでいる姪の姿が、伯父のベッドからは丸見えだったのだ。一番見られたくない顔を見られた気がして、私はまともに伯父と目を合わせられないまま、ぺこりと頭を下げた。彼は、最悪に痩せこけていた。もともと色白で線の細い人だったけれど、それとは全く次元が違う、明かに病魔に蝕まれている姿に私は息を飲み込んだ。ベッドの隣の丸椅子に腰掛けて、横になっている伯父とあらためて向かい合った瞬間、死につながるあらゆる情報が、目覚めに強い光を当てられた時のように、鋭い衝撃となって一気に押し寄せ、私を打ちのめした。気を確かに持っていなければ、とんでもないことを口走ってしまいそうだった。人はこんなにも痩せられるのか、と恐怖に背筋を震わせながら私は思った。
「紬」伯父の、消え入りそうな低い声に、私はいつの間にかうつむいていた顔をあげた。彼のうつろな瞳が、私を映すなり、ふっと和むのが分かった。「よく、きたな。一人か?」「うん」「そうか。遠かった、だろう」いつも自分中心で生きてきた伯父が、他人のことを気にかけるなんて。
私は無理やり笑顔を作ったままの顔を、横に振った。「平気」どうにか声を押し出しながら、私は言った。「紋太とかもきてるの?」「ああ、きてる。夜に、な」そこで伯父が突然咳き込みだしたので、私は心臓の止まる思いで立ち上がった。言葉の代わりに、彼の点滴の管が下がった細い手が、かすかに浮いて私を制する。
 私は、のろのろと、再び腰を下ろした。まだ息の荒いまま、大丈夫だ、と彼の細々とした声が言った。その顔は、ちっとも大丈夫ではなかった。青白く、生気が抜け落ちている。病室には私たち以外、誰もいなかった。多分、中庭に出て、日光浴でもしているのだろう。この天気なら当然だ。
外の透明な太陽の光は、窓際で横になっている伯父の元へも、白く色づいて斜に差し込んでいる。細くあいた窓からは、風がそっと入り込む。眩しいかな、と思ってカーテンをかけようとすると、背中から伯父が呼んだ。「紬。いい。そのままで」少し間があって、彼は続けた。「果物。お前が食え。ナイフは、その戸棚に、ある」うん、と頷いて、私は椅子に戻った。ベッド脇の小さな戸棚の引き出しから果物ナイフを取り出す。本当はたいして食べたくもないリンゴの皮を剥き始めると、初夏のような、涼しげで瑞々しい音がした。眠ったのか、それともただ目をとじてこの心地いい音色に耳を傾けているだけなのか、それっきり伯父は何も言わなくなった。私は黙って、リンゴを剥き続けた。そういえば、私には人を看取った記憶がない。祖父母は私がまだお乳を必要としていた時に亡くなっていたし、友人も、母も、新しい父も幸い元気でやっている。血のつながった父とは、遠い昔に母が離婚して、その時に私ともそれっきりの関係になってしまったので、生きているのか死んでいるのか、それさえもはっきりとしない。だから、生命が死の世界へ向かって萎えてゆくのを目にしたのは、ドラマや映画を除けばこれが初めてのことになる。平面世界とは全然違う。実際は想像以上に複雑だった。とにかく、死というものがうまく理解出来なかった。悲しいと思うのは、それがもたらす喪失の痛みであって直接的な意味とは違う。どんなに考えても、その中心へたどりつけないのは、多分、人が入ってはいけない領域なのだろう。だから、私たちは漠然と思うしかない。ああ、この人はもうすぐ死ぬのだ、と。誰に教えられたわけでもないのに、一目見て相手が死と仲良くなってしまったことを悟る。飼い犬が死に際、主人の前から姿を消すように、人間にもまた、生来そういうことを直感的に感じる力があるのだと、私はこの時、身を持って知ったのだった。
 帰り道。日が傾いて藍色と茜色に染まった美しいグラデーションの空を、バスの窓から眺めながら私はこらえ切れず泣いた。もうすぐ伯父が死んでしまうということが、異常なほど哀しくて、もう泣かずにはいられなかった。結局、伯父とはその日が最後だった。息を引き取る寸前は、もう意識はほとんどなかったらしいが、それでも壮絶な最期だったと、葬式から戻った母はまぶたを真っ赤に腫らしながら教えてくれた。ちょうど悪い風邪にやられて、ベッドのうえから動くことが出来ずいた私は、その訃報を夢と現の狭間で知った。高熱に浮かされ、輪郭のない、ぼんやりと霞がかった意識の中、ああ伯父さん、ついに天国へ行ってしまったんだ、と妙に素直な気持ちで納得したものだ。 私が普通の生活に戻れたのは、伯父の葬式から、さらに数日経ってからだった。柔らかい日差しが差し込む久しぶりの朝。ベッドに張り付いたような背中をひきはがすなり、私は自分の体調がよくなっていることに気が付いた。まだ体全体にだるさが残っていたし、頭も相当重かったが、熱は下がっている。今はそれだけで十分だった。元気になったら、とにかく一番に伯父に会いに行こう、と決心していた私は、すぐに荷物をまとめて、飛行機のチケットも電話予約し、その足で外へ飛び出した。もうとっくに灰になって、仏壇の上で四角い写真に姿を変えてしまっただろうけれど、死に目にも葬式にも立ちあえなかったのだ。せめて、お墓参りくらいはしたかった。

 バスの窓は、見慣れた景色を映し出している。前回きた時は直接病院へ向かったし、帰りは涙を止めるのに必死で寄り道どころではなかったから、こうしてこの場所を見るのも実に二年ぶりくらいになる。まるで昨日のことのように、全く変化のない、のどかな景色だ。ゆるやかなカーブも、住宅街も、バス停も、小さな店も。ああ、でも少しだけコンビニが増えただろうか。私は冷房のきいた車内から、懐かしさに目を細めながら後ろへ流れていく外の世界をじっと見つめた。                     続く