目の見えないネコの話

 私は目が見えない。
 生まれてからすぐに失明したらしい。父からはそうきいている。少なくとも、私には目が見えた頃の記憶は無く、物心がついた時には、すでに闇の中へ身を置いていた。眼球が本来の役割を果たさないことは、しかしそれほど不便なことでもなかった。失った視力を補うには十分すぎる程の聴力や嗅覚が、私には備わっていた。
 私を育ててくれたのは、父だ。母はいない。母について父は何も教えてくれなかったし、私からあえて訊くこともしない。正直言って、それほど興味もなかった。とにかく父は男手ひとつで私の面倒を見てくれた。朝晩の餌を毎日、一度も欠かすことなく与えてくれたし、晩には私が寝付くまで頭を撫でてくれる。
 「お前は最高のネコだよ」
 そう言ってくれることもあった。雰囲気で、それがほめ言葉であると感じていた私は父から囁かれる度に目を細めるのだった。
 父は私をネコと呼ぶ。そういう種類の動物なのだそうだ。ネコはとても俊敏で利口なのだと聞く。残念ながら私は自分が想像するネコよりも、ずっと動きがのろく知能も低い。きっと外見だってたいしたことないだろう。
 だけどそんな私を、父は可愛がってくれる。
 
 ある日、妙な出来事があった。
 いつもと同様、朝早く出勤する父を玄関まで見送ってからのことだ。ドアの向こう側で鍵のかかる音と、遠ざかっていく父の靴音を聞いていた私は、妙な視線が背中の辺りに注がれているのを感じた。誰かがこっちを見ている。近くからではない。少なくとも数メートル先。多分、窓の外だ。不思議に、危機感はなく、怖くは無かった。何気ない表情を作りながら、真っ直ぐに寝床へ向かいながら、私を見ている人物について考えた。当然、思い当たることは何も無い。私は父以外の人間を知らなかった。テレビの前に置かれたソファの上で丸くなる。クッションに頭を横たえ目を閉じると、やがて眠りがやってきた。視線は、最後まで私から離れなかった。

 誰かの視線を感じるようになってから、三日が経過した。ここまで続くと、もはや観察されているとしか思えなかった。私は、その人物を心の中で密かに観察者と呼ぶことにした。観察者のマークは徹底していて、私が用を足す時や餌箱に顔を突っ込んでいる時も常に離れることはなかった。もちろん、そのことを父に教えようとも思った。しかしネコである私は「にゃあ」としか言えず、頭の中で何を思おうと直接それを彼に伝えることは難しかった。
 観察者が現れてから四日目の朝。私は腹部を貫くような衝撃と共に目覚めた。意識がはっきりすると同時に、父が目の前に立っていることが気配で分かった。それとほとんど同時に、父の手のひらが私の顔を立て続けに二度はった。首の組織がねじ切れ、鼓膜が破れるかと思った。口の中が錆びた鉄の味がした。
 慌ててソファから降りようとしたとたん、体勢を崩した私はそのまま床の上に転がった。父がこうなることは、それほど珍しいことではない。それは持病の発作のようなもので、むしろ頻繁に起こった。引き金は日によって違っていたけれど、根本にある理由は常に同じだ。社会に対するストレス。たまりたまった鬱憤が、ある日、突然爆発する。そしてその矛先は、いつも私だ。
 「いつまで寝ているんだ」
 左の頬を殴られた。悲鳴を漏らした瞬間、父の手が首に回され、そのままゴミの入った袋みたいに投げられる。簡単にテレビの方まで飛んだ私は、全身を強く打ちつけ再び床の上に転がった。右の前足の感覚が無くなっていた。幸い胴体からもげたわけではないらしい。どうにか立ち上がることが出来た。いきなり、鼻っぱしに何か硬いものを投げつけられた。おそらく、ビデオテープだろう。
 「俺は毎日、仕事で、お前はのうのうと寝てるのか」
 父の怒鳴り声が近づいてくる。
 「俺はお前のために働いているんだ」
 もちろん、それはよく分かっていた。
 「お前の餌代のために」
 分かっている。そう答えたかったけれど、私はか細い声でしか鳴けない。それがさらに父の神経を逆なでしたらしく、私は体ごと持ち上げられ、真下に叩きつけられ、それから何度も蹴りを入れられた。私は痛みに耐えなければならない。それは父に教えられたことだ。父は私のために、いつも大変な思いをしている。目の見えない私を飼うことは、とてつもない苦労なのだときく。だからこそ私には、こうして痛みに耐える義務があり、そうすることで、はじめて私たちは平等な立場になれるのだそうだ。
 どれくらい、蹴られていただろう。
 普段なら、そろそろいつもの父に戻る頃だった。体を丸めながら、私はぼんやりと考える。そうすれば、また「お前は最高のネコだよ」と褒めながら優しく頭を撫でてくれるはずだ。しかし予想とは裏腹に、いつまでたっても父は元に戻ってはくれなかった。声を張り上げ、大きな物音をたてながら、私を蹴り続ける。胸の辺りで鈍い音がした。骨が折れたのかもしれない。不思議に痛みは無かった。私にはもう悲鳴を上げる力も、痛みに耐えるために食いしばっていた歯も、ほとんど無くなっていた。
 そうか、と私は気がつく。きっと、痛みに耐えた分だけ父は深く私を可愛がってくれるに違いない。今は、その為の儀式みたいなものなのだ。そうに違いない。
 と、その時だった。突然、空気が破裂するような衝撃音が部屋を揺らした。ガラスが砕ける音。複数の靴音。近づいてくる。怒鳴り声が頭の上で行き交い、やがて父が悲鳴を上げた。何が起きたのか、私にはさっぱり理解できなかった。
 「生きているか」
 誰かの体温が頬に触れた。観察者だ、と直感で悟ることはできたものの体はうまく反応してくれない。大丈夫。そう伝えたかったのだけど、すでに首から下の感覚は麻痺していてぴくりとも動いてはくれなかった。やがて意識は遠のき、私は気を失った。

 嫌なものをはらうような、さっぱりとしたミントの香りが鼻先をかすめた。相変わらず目の前は真っ暗だが、瞼を持ち上げているという自覚はあった。どうやら眠っていたらしい。
 「起きたかい?」
 父ではない。きっと観察者だろう。どうやら父よりずっと若いようだ。体を起こした私が自分を覆っているものを剥ぎ取ろうとすると、彼は慌ててそれを止めた。
 「駄目だよ。着ていなくちゃ」
 私には彼の言っていることが、よく分からなかった。これまで私が何かを身にまとうなどということは、一度だってなかった。動く度に体と布がこすれて、なんだかくすぐったい。
 「君は目が見えないようだから説明しておくよ。ここは病院のベッド。君は警察に保護されたんだ」
 観察者は言った。彼が私のすぐ隣に立っているのは気配で分かる。話の内容も理解出来た。しかし、肝心なところが分からない。警察は、どうして私を捕まえたりしたのだろう。疑問に思ったのが顔にも出たのか。彼は、ゆっくり説明してくれた。
 「僕は、少し前から君をマークしていたのだけど。いや、正確には君と一緒に暮らしていた男の方だがね。とにかく二十四時間、徹底的に張り込ませてもらった。君の住んでいたのはマンションの三階だったから、隣接するアパートの屋上から見ていたんだ。驚いたよ。普段の君は裸で、そしていつも動物のように四本足で生活していた。」
 そこで観察者や、その仲間たちはある仮説を立てたのだと言う。
 「君は、自分が猫や犬などの動物だと思っているんじゃないのかい?」
 私は、ネコだ。父がそう言っていたのだから間違いない。しかし観察者は、あっさりそれを否定した。
 「君は、人間だよ」
 そんなこと、ありえない。
 だって父が教えてくれたのだ。私はネコという名の動物なのだ、と。
 「十二年前のことだ。君は、まだ赤ん坊の頃に誘拐された。言葉も知らない、親の顔もしっかり覚えていない頃に」
 その誘拐犯が、つまり、父。頭の中で、私は観察者の言葉を反復する。その度に、こめかみがきりきりと痛んだ。生傷に触れられているようだった。しかし苦痛に思う一方で、私は彼が話を続けることを望んだ。
 父は、犯罪者だった。私の本当の両親は別にいて、今もなお健在だと言う。誘拐の理由はまだはっきりしていないが、主に虐待の道具にするために連れ去ったらしい。そして私は、自分の名前を初めて知った。父の話も私の名前も、まるで他人事のように聞こえたけれど、観察者の話は全て真実なのだろう。悲しいことに、私の瞳が役立たずになったのも父の、いや、父だった人の犯行だろうとのことだった。ショックで私は呆然とする。観察者が、無言で立ち去ろうとしているのが気配で分かった。慌てて手を上げ、私はそれを止める。瞬間、あるはず無い自分の視線が彼のそれと結ばれた気がする。私は喉元へ意識を集中させながら、頭の中にある感情を声に変換した。あまりに小さく、発音も悪かったので彼に届いたかまでは分からない。ひょっとすると、自分ではきちんと話しているつもりが、本当は凹凸の無い単なるうめき声になっていたかもしれない。けれどそれは、私にとって人間として生まれて初めて表に出した感情であった。

「ありがとう」