Close or Not  一章

死体の匂いを嗅ぎ付ける能力が自分に備わっていることを知ったのは、もう随分と昔の事だ。その異質な力をはっきりと自覚したのが今から十年ほど前、僕が九歳の頃だ。以前から、どす黒く光る内蔵を広げた猫を道端で見たり、玄関先に羽を閉じたまま固くなっている雀や、蠢く蛆に包まれた何かの肉塊が目の前に現れた事は多々あったものだが、それらは全て偶然であって特別な理由などありはしないのだと深く考えもしなかった。少なくとも、あの夏の日。僕が人間の死体を見つけてしまうまでは。どういう理由から自分が森の奥深い部分まで足を伸ばしてしまったのかは、よく覚えていない。そもそも何故、森へ向かったのかもまるで記憶に無い。幼さゆえか、それとも視界に飛び込んできた、あの映像があまりに衝撃的だったせいなのか、細かいところは分からない。とにかく気が付くと、僕が足を止めた数メートル先に、それはあった。背丈の高い木々は、シェルターのように外界の明かりを遮り、濃い闇をたたえている。木漏れ日が一本、湿った地面に突き刺さるように伸びていた。そして照らし出されるように、人間の躯が横たわっていた。間違いなく、それは息の絶えてしまった人間であった。服は泥だらけになり、汚れた小さな蛆が這っている。半袖から剥き出しになった両腕は灰色っぽく、紫色の毛細血管が皮膚を通してはっきりと見えた。生臭い。僕は辺りに視線を巡らせ、首から上についてあるはずのものを探した。そしてそれはすぐに見つかった。どういうわけで本体と離れた所に落ちているのだろう。頭がひとつ、サーカーボールのように無造作に転がっていた。乱れた茶色い髪の毛はからまって瑞々しさを失っていたけれど、きっと生前は背中まである美しい髪の毛だったに違いない。その顔は膨張し、蛆に穴を空けられ、もはや原形を留めてはいなかった。両目も、開いていたのかとじていたのか分からない。唇はぎざぎざに削られていて、そこから数本の前歯がのぞいていた。かすかに笑っているようにも見えた。
天を仰ぐと僕の太ももほどある太い枝には、ロープが輪を作ってぶら下がっていた。移動したのは、躯の方か。別段驚く事なく、僕の思考回路は淡々と考える。恐怖も、正直言ってまったくなかった。むしろ感動や興奮を、胸の奥で感じたくらいだった。その瞬間、僕は漠然と理解したのだ。自分は、死体を嗅ぎ付ける能力がある。そしてそれは、他人にはない特別な力なのだ、と。「眠いわ」 炬燵に入ったままの志摩裡里は、背中を丸めながらテーブルへ頭を横たえて呟いた。「眠ればいいじゃないか」彼女と向かい合う形で座っていた僕は、実家から送られてきた蜜柑の皮を剥きながら、苦笑した。裡里が眠たがるのはいつものことだ。というよりも、きちんと起きている時の方が少なく思えるくらい、普段から彼女はうとうとしている。もはや病的なほどに。僕は炬燵から抜け出て、何か冷たいものでも飲むかい、と裡里にきいてみた。返事の代わりに、規則正しい寝息が顔を伏せたままの彼女から聞こえてきた。腰まである黒髪が広がっていて、寝顔はよく見えない。静かにキッチンへ出て、冷蔵庫からジンジャエールの缶を取り出して、タブを開ける。炭酸の心地いい刺激が、喉元を流れ落ちていく。裡里と僕のデートは、たいてい僕のアパートで一日を終える。テレビゲームをしたりトランプをしたり、時々は僕が宝物にしているデスファイルのビデオを観たり。二人並んで昼寝をしたり、と。引きこもりの若者が単に一緒にいるだけ、という形が出来上がる。以前、それをきいた友人が、そんなものはデートではないと笑っていたけれど、仕方がない。人のいる場所が極端に苦手だった僕らには、選択肢がないに等しかった。ジンジャエールを片手に炬燵へ戻り、再び中へ両足を潜らせた。僕の持つ暖房器具はこれひとつだったので、部屋はいつも寒い。息が白い時も珍しくはないくらいだ。ベッドわきの四角く切り取られた窓ガラスの向こう側では、雪がちらちらと降り始めていた。裡里が目覚めたのは、日も沈み夜が訪れてからだった。退屈を埋めるために僕が観ていたデスファイルの物音でどうやら気が付いたらしく、彼女はむっくりと顔をあげるなり、乾いた声で、帰るわ、と言った。「晩御飯はいいのかい?パスタぐらいならすぐに出来るけど」立ち上がった裡里は、玄関先でふと足を止めてから振り返った。「今日は家に帰って食べるわ。なんだかとても眠くて。このままじゃ、また眠ってしまいそう」「そう」
「それじゃあ、また大学でね」ひらひらと手を振ったまま、裡里が外へ出る。ゆっくりとドアは閉まり、バタンと音を立てた。空き缶を流しに置いて壁掛け時計に目をやると、午後の七時を少し回っていた。その晩、床についた僕は何故か無性に本を読みたくなって、パジャマから再び洋服に着替えると、厚手のコートを着込んで外出した。雪は相変わらず降っていて、昼間の分はすでに地面に積もり、歩く度に足の裏で音を立てた。この辺は民家の密集地帯で、車道は狭く、車どおりはほとんど無い。静まり返っている路地を僕はコートのポケットへ両手を突っ込んだまま進み、突き当たりを左に折れた。表通りへ抜けると、建ち並ぶコンビニや飲食店の明かりと喧噪が僕を包んだ。車が走っていないことを確認し、車道を横断する。そのまま真っ正面にある本屋の自動ドアを、くぐり抜けた。店の中は閑散としていて、ほとんど人の姿はなかった。へたをすれば、客よりも店員の頭数の方が多いかもしれない。CDコーナーには目もくれず、本の並ぶ棚を眺めながらぶらぶらと進む。本を読みたくて足を運んだのだけれど、具体的にどんな種類のものを読みたいのか考えていなかったので悩んだ。インテリア系の雑誌を置いてある所を通り過ぎたところで、目のふしに映った人物に気が付き、僕はふと足を止めた。裡里だ。珍しい。参考書でも立ち読みしているのだろうか。彼女は手に持った本を真剣に読んでいる。「裡里」手を挙げて彼女へ歩み寄ると、裡里はきょとんとした表情で僕を見た。その顔を目にしてから、自分がとんでもない勘違いをしていることを悟り、声をかけたことを後悔した。 「尚喜さん」本を閉じた彼女は、裡里と瓜二つの顔で微笑んだ。さすがは一卵性双生児。僕でも見分けがつかないくらい、酷似している。「美里ちゃん、か」よく考えれば、裡里がこんなところにくるはずがないのだ。きっと今頃は夢の中にいるに違いない。それにしても、と僕は裡里の妹である美里を眺めながらあごをしゃくった。双子だから言って、なにも服装まで同じにすることないのに。これでは見間違えても仕方がない。「尚喜さんも本を買いにきたんですか?」「うん。眠れなくてね。美里ちゃんは、参考書?」「はい」顔の作りは同じでも、二人の性格は朝と晩くらいまるで違う。美里は、姉に似ないではきはきとよく喋る。会話の苦手な僕には、少しやりにくい相手だった。「今日はお姉ちゃんは?」「会ったよ。でももう帰った」「そっか」ポケットから右手で財布を取り出すと美里は中を確認し、苦笑した。
「お金、足りないや、尚喜さん、五百円貸してもらえます?」美里と別れた後も僕は店内をしばらく徘徊し、欲しい本を見つけられないまま、店を後にした。そして帰る途中で自動販売機から暖かい缶コーヒーを買い、きた時と同じ道を歩いた。雪はやんでいたけれど、夜が深くなるにつれ空気は冷え込み、時折吹き抜ける風は肌に刺さるような痛みを与えた。なんだか、とても無駄に時間を費やしてしまった気がしておもしろくなかった。早く帰って、もう一度風呂にでも入って、もう眠ろう。明日も一時限目から講義がぎっしり入っている。と、缶コーヒーを飲みながらアパートの前までくると、僕は誰かに呼ばれたような気がして振り返った。夜の公園は昼間の騒がしさが嘘のように、無言で街灯に照らし出されていた。「・・・」僕の視線は、公園の一番奥に注がれた。
あれは、何だ。心臓が、ざわりと音を立てた。親に連れられた近所の子供達が、いつも遊んでいる砂場。そこに何かがある。一瞬、子供かと思った。しかしこんな時間に、いるはずがないのだ。でもあのシルエットは、決して大人ではない。好奇心に背中を押されるように僕は公園の中へ入り、砂場へ向かった。予感は、あった。この感覚は、過去に何度か経験しているものだった。そう。心臓がざわつき、気持ちが狂ったようにはじけだす。よく知っている感覚だった。こういう時の僕は、決まって死体を見つける。それが何であるかを理解した瞬間、僕は彼女を見下ろした。やっぱり死体だった。子供の影だと思ったそれは、砂場に押し付けられるように立てられた上半身で、下半身はその隣りに横たえられていた。彼女の顔は真上を向いていた。残念ながら、目を合わせることは出来なかった。眼球が両方ともくりぬかれ、そこには砂が詰め込まれていた。口はあごが外れたように力無くぱっかり開き、舌が、まるで夏場の犬のように横からだらりと垂れ下がっていた。 歯はすべて抜き取られ口の中に入れられていた。長く、闇に溶けそうなほど黒い髪の毛は肩よりもわずかに上で切られ、一束ずつ両手に握らされていた。よく見ると、眼球もその上にのせられている。不思議なことに、服にこびりついた血の跡以外は、特に目立った汚れは見当たらなかった。彼女を殺した人物が拭きとったとしか考えられない。上半身の立っている周囲には、元は内蔵だったものが巨大な蚯蚓のように濡れながら、散らばっていた。僕は真っ二つになっている彼女を見つめた。 この服装。顔付きから予想して、まず間違いない。彼女は数時間前に僕のアパートを出たはずの、志摩裡里だ。

                   続く