WORDS BANK

液晶のブラウザと向き合いながら、キーボードを叩く。すっかり見慣れた画面が、鼠が木をかじるような忙しない音をたててたちあがる。縦一列に並んだ件名の一覧を目で追い、カーソルを動かす。そして一番下のそれを見つけて、僕は手を止めた。一時間ほど前に届いた未開封の新着メール。送信者の欄には『WORDS BANK』とある。間違いない。これだ。マウスを動かしカーソルをそのメールに重ねてクリックする。続けて添付されてきたデータを開く。メールの内容よりも、僕が待っていたのは、むしろこっちの方だ。 真っ暗闇の中、右から左へとボールが転がるようなアニメーションが数秒流れ、やがて映像が切り替わる。目の前に現れたのは、活字の羅列だ。
「よし。いいぞ」
舌なめずりをしながら小さく呟く。
そこに書かれていた内容にざっと目を通す。おもわず口元がにやけてしまった。今回の作品もいい出来だ。恐ろしいほど完成度の高い仕上がりになっている。下手な作家より、ずっとましな一本に違いない。
さっそくいつも通り自分のサイトにアップすることにしよう。僕はキーボードを叩いた。
僕が『WORDS BANK』と出会ったのは、今から半年くらい前になる。当時、今よりもたくさんの時間をネットサーフィンに費やしていた僕は、偶然そのサイトを見つけた。 最初は、よくある自作の小説サイトかと思った。しかしそこに並ぶコンテンツや、トップに書かれた当サイトの趣旨というのを読むうちに、それが僕の勘違いであることに気が付いたのだった。『WORDS BANK』は、希望者に小説を提供するという、少し変わった趣のものだった。ちょうど僕もお遊び程度に書いた小説を、自分のホームページにアップしていたことから、規約もろくに読まずにメンバー登録し、とりあえず短編を一本注文してみたのだった。そして、それから一週間ほどして届いたその短編を読んだ僕は、驚愕した。感動が胸を打つというのはこういう瞬間を言うのだと、その時、初めて知った。自分の小説を、人の目に触れる場所に置いてあることがたまらなく恥ずかしくなって、慌てて削除した。送られてきた作品に比べて、僕のそれはなんて薄っぺらいのか。そもそも比べることすら間違っている。とにかくその日から、僕は何本も小説を注文しては、それを自分の作品としてホームページで公開している。おかげ来訪者も増え、感想もよくもらえるようになった。一部の人からは、プロになれるのではないか、などと言われたりもする。 ・・・プロ。
ホームページにアップしようとした手を止めて、僕はふと考えた。プロ。小説のコンクール。賞金。そうだ。これくらいレベルの高い作品たちなのだ。すべていろんな賞に投稿すれば、ひとつくらいは引っ掛かるかもしれない。そうすれば賞金だって手に入るじゃないか。そんな考えが脳裏をぐるりと駆け巡り、僕は下唇を咬んだ。もちろん、それがフェアでないことは分かっている。人の作品を自分のものだと偽って投稿しようとしているのだ。そんなこと許されるはずがない。しかしそうは思っていても、小説を印字しようとする僕の手は止まらなかった。いけないことなのだと頭では分かっていても、欲が先立って歯止めがきかなかった。

雑誌を広げた瞬間、とんでもないことになったという危機感と、やりとげたという達成間が一緒くたになって僕は軽い目眩を感じた。やり遂げた、なんて笑わせる。別に僕は何もしていない。新人賞を受賞したのだって、僕の力ではなく、『WORDS BANK』で書いている誰かの実力なのだから。とにかく、出来心で送った短編は、その年の新人賞に選ばれてしまい、その時点で僕は新人作家として文章の世界に踏み込んでしまった。しかも選考に立ち会った人達のコメントは、どれも褒めちぎるばかので、ひとつとして厳しい事は言っていない。
親も親戚も友人も、どこで聞き付けたのか知らないが、近所の人達まで自宅に押しかけてくる始末だった。少しして、僕を作家にしてくれた出版社から電話があった。新作を書いてほしい、とのことで、得意になっていた僕は二つ返事で快諾した。そうだ。ここまでくればもう引き返すことは出来ない。この先も、同じように『WORDS BANK』から小説を取り寄せればいい。さっそく新作のために、『WORDS BANK』へ訪れ注文ページを開いて、僕は凍りついた。

『有効期限が切れています』

有効期限?なんだそれ。そんなのきいてない。何かの間違いだと自分に言い聞かせながら、もう一度ログインを試みる。駄目だった。 おかしな汗で手のひらが濡れた。口の中が乾き、心臓が早鐘を打ち始めた。トップページへ戻って規約を読んでみると、確かに有効期限について書かれていた。期限は、一年。既に切れている。しかも規約の内容はそれだけではなかった。
『期限終了後は、当サイトのお客様のために、登録者の皆様の文章能力をいただきます』 どういう意味だ。
もうろうとした意識の中で、僕は首をひねった。そんなことよりも、新作を書かなければならない。そういえば出版社の人が、執筆中だということを大々的に宣伝しておくと言っていた。これで完成しませんでした、なんてことになったら、一体僕はどうなるのだろう。 どうする、どうすればいい。
パソコンの前で頭を抱えながら僕は唸った。 こうなったら、自分の力で書くしかない。震える手でマウスを握り、ワードを開く。自分での執筆は、実に一年ぶりのことだ。
画面上の原稿を見ると、僕はおかしな違和感に襲われた。
「あれ?」
思わず声に出す。
浮かばない。ストーリーどころか、いっさいの文章が、冒頭すら、浮かばない。頭の中は真っ暗で、一文字も浮かんではこなかった。 不意にさっきの規約のことを思い出した。
『登録者の文章能力をいただきます』
・・・嘘だろ。
そんなはずない。そんなこと、どうやったってできっこないじゃないか。しかし、どんなに頭を働かせても何も浮かばない。思いつかない。多分、脳みそを絞ってもそこからは何もでてこないに違いない。空気が薄いのが、動いてもいないのに息が切れる。キーボードに手を載せたまま、凍りついたように真四角の画面を見つめた。そこには永遠に書き込まれることのない白紙の原稿が広がっていた。


たっぷり入った湯船に体を沈めると、疲れが足元から溶け出していくようだった。そっと目をとじて頭を横たえる。さっき三人で見たあの夕焼けが、日光写真のようにまぶたの裏側にくっきりと焼き付いていた。あの時、私は自然の壮大さに感動する一方で、実は隣に立つ紋太のことを考えていた。彼の大切な夢。いつか小説家になりたいという、ちぎれそうなほど真っすぐな希望。
 自分の目標を熱っぽく語るあの頃の彼の光るような顔を、私は今でもちゃんと覚えている。それなのに昨晩の紋太は、小説を書くことをやめた、ときっぱりと言い切った。私には、どうしてもそれが信じられなかった。昔から、あれほどがんばっていたのに、そんなに簡単に投げ出せるものだったのだろうか、彼の夢は。「いつか三人で、ひとつのものを作り上げよう」私たちがそう約束したのは、もうずいぶんと昔のことになる。忘れはしない。紋太と黒斗が中三で、私が中二の、夏だ。あの頃の私たちは、いつも未来にあるだろう希望に夢をふくらませていた。それこそ、押せば現実は動き、叩けば障害は崩せると本気で信じていた時期だ。最初に言い出したのは、紋太だった。夏休み。青い空の下。三人で海の見える道を歩きながら。俺は将来、絶対に小説家になる。そしたら、歌が得意な黒斗は、俺の物語にぴったりな音楽をつけてくれよ。紬は絵がうまいだろ。だから、もっともっと今よりもうまくなって、俺の小説の表紙をデザインしてくれ。その日、私と紋太と黒斗は約束した。あれはもう、誓いだったはずだ。それなのに。やり切れない思いに胸を痛めながら、私は目を落とした。湯気の立ちのぼるお湯の表面が、てらてらと天井の明かりを乱反射させている。時間の流れは、万物に共通している。自然にも、生にも、死にも、そして私たちの気持ちにまでも。だから今日までの過程のどこかでつまずいて、大切にしていた夢を諦めてしまっても、それはしかたのないことなのだと思う。頭ではちゃんとわかっているのだ。紋太は軽き気持ちで夢を捨てたんじゃない。 きっと、迷い、悩み、痛みの果てに選んだ道だったに違いない。けれど、どんなに自分にそう言い聞かせても、私の心はやっぱり納得出来ずにいた。どうしても、やり切れないものが、しこりとなって胸の奥に残っていた。

                    続く


たっぷり入った湯船に体を沈めると、疲れが足元から溶け出していくようだった。そっと目をとじて頭を横たえる。さっき三人で見たあの夕焼けが、日光写真のようにまぶたの裏側にくっきりと焼き付いていた。あの時、私は自然の壮大さに感動する一方で、実は隣に立つ紋太のことを考えていた。彼の大切な夢。いつか小説家になりたいという、ちぎれそうなほど真っすぐな希望。
 自分の目標を熱っぽく語るあの頃の彼の光るような顔を、私は今でもちゃんと覚えている。それなのに昨晩の紋太は、小説を書くことをやめた、ときっぱりと言い切った。私には、どうしてもそれが信じられなかった。昔から、あれほどがんばっていたのに、そんなに簡単に投げ出せるものだったのだろうか、彼の夢は。
「いつか三人で、ひとつのものを作り上げよう」
 私たちがそう約束したのは、もうずいぶんと昔のことになる。忘れはしない。紋太と黒斗が中三で、私が中二の、夏だ。あの頃の私たちは、いつも未来にあるだろう希望に夢をふくらませていた。それこそ、押せば現実は動き、叩けば障害は崩せると本気で信じていた時期だ。
 最初に言い出したのは、紋太だった。
 夏休み。青い空の下。三人で海の見える道を歩きながら。
 俺は将来、絶対に小説家になる。そしたら、歌が得意な黒斗は、俺の物語にぴったりな音楽をつけてくれよ。紬は絵がうまいだろ。だから、もっともっと今よりもうまくなって、俺の小説の表紙をデザインしてくれ。
 その日、私と紋太と黒斗は約束した。
 あれはもう、誓いだったはずだ。
 それなのに。
 やり切れない思いに胸を痛めながら、私は目を落とした。湯気の立ちのぼるお湯の表面が、てらてらと天井の明かりを乱反射させている。
 時間の流れは、万物に共通している。自然にも、生にも、死にも、そして私たちの気持ちにまでも。だから今日までの過程のどこかでつまずいて、大切にしていた夢を諦めてしまっても、それはしかたのないことなのだと思う。頭ではちゃんとわかっているのだ。
 紋太は軽き気持ちで夢を捨てたんじゃない。 きっと、迷い、悩み、痛みの果てに選んだ道だったに違いない。けれど、どんなに自分にそう言い聞かせても、私の心はやっぱり納得出来ずにいた。どうしても、やり切れないものが、しこりとなって胸の奥に残っていた。

 お風呂あがり。
 私は冷蔵庫から缶ビールとビーフジャーキーの袋を取り出して、それを
持ってソファーへ移動し、どっかりと腰を沈めた。あれこれ考えて、いつもより長湯してしまった分、冷えたビールの一口目がおいしかった。なにげなくリモコンでテレビをつけると、よく分からないバラエティー番組がやっていた。つまみの袋をあけて、再びビールをぐびぐび流し込む。と、背中から黒斗の声が聞こえて、私は振り返った。
「紬って、おいしそうに飲むね」
 と言ったのだった。
「ごめん。お風呂、先にいただいちゃった」
「別にかまわないよ」
 黒斗は冷蔵庫から取り出した麦茶をコップにつぐと、私の隣へきて腰掛けた。歯を磨いてきたのか、かすかなミントの香りが鼻先をかすめる。
「今日の夕焼け、すごかったね」
 テーブルにおいてあるビーフジャーキーを食べながら、黒斗は言った。
 私は頷きながら、
「あんなの初めて見たよ」
 とビールを流し込んだ。
「きっと、街じゃ見れないよ。建物が多すぎて」
 パジャマの両ひざをたて、ビーフジャーキーへ手を伸ばす。
「そういえば紋太は?」
 思い出したように、私は黒斗にきいた。
「二階だよ。音楽聴いてる」
「ふぅん」
「さすがの彼も疲れているみたい」
「お墓参りもしたしね。明日からまたバイトだろうし」
 そうやって会話を交わしていると、ふとした瞬間、落とし穴みたいな沈黙が突然訪れて、不安になった私は隣に目を向けた。黒斗は笑っていた。
「どうかした?」
 と尋ねると、彼は小さく首を振った。
 けれどその表情は、明かになにかを隠している。なによ、言ってよ、と何度も返事を促すと、黒斗はようやく遠慮がちに口を割った。
「久しぶりに紋太と会って、どう?」
 その質問の含みにどきりした私は、
「どうって。別に」
 と何げなさを装って答えたものの、その声はかなりうわずっていた。とたんに、なんだかばかばかしくなって、
「嬉しかった」
 と言い直した。
 どうせ黒斗には嘘は通用しないし、こういうふうにきいてくるということは、私の気持ちも知っているということなのだろうし、だったら今さらなにを言ってもなんの効果もない。白状しよう。私は、以前から紋太のことが好きだった。異性として、特別という意味だ。世間一般に言われる、近親相姦というやつだ。言葉に出せば生々しいけれど、しかたがない。恋は恋。たまたま好きになった相手が、いとこだったというだけの話だ。第一、恋なんて流れ弾みたいなものだ、と私は思う。理屈なんていっさい関係ない。運のように、突然ぽっと沸いて、熱に浮かされる。
 私も同じだ。
 気が付いたら、彼の存在がアメーバーのように増殖し、いつしか私の心を満たしていた。隣に座る黒斗の視線を頬に感じながら、私はビールの残りを飲み干した。