サヨナラ

傾いた太陽が、僕らの足元に影を作る。大きなボストンバックを右手にぶら下げた彼女が新幹線へ乗り込んだところで振り返った。僕を含めた見送りの数人で彼女に別れの言葉を贈る。閉まるドアの向こう側で、彼女はそっと微笑んだ。さよなら。心の中で呟きながら目を伏せる。さよなら。本当に伝えたいことはそんな言葉じゃなかったのに。さよなら。とうとうそれしか言えなかった冷たい三月。end

林檎

凍るような寒さを、漆黒の夜空とそこに浮かぶいくつかの雲が包む。街灯がほとんどない薄暗い路地から表通りへと抜けると、視界が一気にひらけ、僕はそこで足を止めた。右手に建つ赤レンガ調の巨大な時計台は午後の十一時を回っている。都会の中心部ならともかく、そのはずれならとっくに静寂の訪れるような時間帯だ。しかし細い道から現れた僕に迫ってきたのは、あふれかえる人波と、きらびやかなネオン、大音響で空気を振動させる音楽だった。 喧噪に飲み込まれそうになりながら、僕は歩き始めた。向かった先には、ばかみたいな数の電球でライトアップされたクリスマスツリーがある。今夜の、クリスマスイブの主役だ。向こうから歩いてくる人達にぶつからないように気をつけて歩きながら、そういえば、と不意に思い出す。林檎はクリスマスが大好きだった。クリスチャンでもないくせに、いつもこの時期になると調子っぱずれなジングルベルを鼻で歌っていたものだった。「ほらほら眠斗も歌って。ふんふんふーん」 高揚して頬を赤く染めていた小柄な林檎。前髪を真っすぐに切り揃え、その下にはこぼれ落ちそうなくらいに大きな瞳と小さな鼻に薄い唇。透けるように白い肌。まさか彼女の、あの綺麗な肌が病的なものが理由だったなんて知らなかった僕は、彼女の白さを何度褒めたか分からない。ツリーの下までくると、それが本物のモミの木ではないことが分かった。プラスチック製だろうか。真緑の葉が、瞬く電飾に変に反射している。だけどそれが、余計にツリーを幻想的な美しさで浮き彫りになっていたのも確かだ。僕は天を仰ぐようにそれを見上げた。「眠斗は生きるんだよ」去年のクリスマスイブの事だ。病室で僕ら二人は聖夜を祝った。林檎は以前に比べてさらにやせ細り、それまでのような肌の美しさも消えてしまっていた。「なに言ってるんだよ。突然」胸に突き刺さるような痛みを感じながら、僕は言った。あえて笑顔で。そこは外が遠くまで見通せる七階の個室だった。僕だってばかじゃない。個室を取れる人間がどういう人かは知っていた。金持ちか、もしくはもうすぐ命の灯火が消えようとしているものか。たいてい、そんなところだろう。「ありがとうね。毎日、お見舞いにきてくれて。おかげで楽しかった」窓の外を見ながら、林檎は言う。隣りの丸椅子に腰掛けながら、僕はひざの上でこぶしを握っていた。なんてこと言うんだよ。楽しかった、なんて。まるで最後みたいに言うなよ。この世に残す言葉みたいで、それがとても痛かった。「明日もくるぞ。明後日も、明々後日も、その次の日も、次の日も・・・」言ってて涙が出そうだった。自分の声が、震えそうになるのを必死でこらえながら、僕は笑う。「ああ、でもその頃には退院してるな。きっとさ。そしてら二人でまた街へ行こうぜ」語尾は、ほとんど声になっていなかった気がする。耐え切れず立ち上がり、「便所、行ってくるわ」ドアの前まで行った所で、林檎が僕を呼び止めるのを聞いた。「眠斗。大好き。ありがとう」結局、彼女はそれからすぐに逝ってしまった。彼女を愛していた、たくさんの人達を残して。今思えば、彼女は自分の死期を僕らや医者よりも正確に知っていたに違いない。一瞬、額に冷たいものが触れた。雪だ。静かに、囁くように舞落ちてくる。僕は空を見上げたまま、そっとまぶたをとじた。行き過ぎる人々の足音と笑い声、話し声。取り付けられたスピーカーから流れるジングルベルが、林檎の下手くそな鼻歌と交じりあり、やがてシンクロする。まぶたの裏側では、エプロンをつけた彼女が僕に背を向けたままごきげんな様子で、ケーキに生クリームを落としている。林檎。心の中で呼んでみると、彼女が笑顔で振り返る。林檎、会いたかった。林檎。林檎。「眠斗」すぐ近くで鐘の音を聞いた。きっと時計台だ。十二時の合図だろう。しかし僕が弾かれたように目を開け、振り返ったのは、彼女の声を耳にした気がしたからだった。いや、違う。気のせいなんかじゃなかった。僕の目の前には、確かに林檎がいた。元気な時の、明るい彼女が。「林檎」それに続く言葉が見つからなくて、僕は口をつぐんだ。近づけば消えてしまいそうで、それさえ出来ない。「ありがと眠斗」はにかむように微笑みながら、彼女が僕の頬を撫でた。暖かい。「林檎、俺」「メリークリスマス」風にほどかれるように、ふっと彼女が消える。僕は目を開けた。心臓が早鐘を打った。「林檎?」振り返り、彼女を捜す。けれど林檎の姿はなかった。当たり前だ。この世界に彼女はもういないのだ。それなのに。さっき林檎が触れた頬を、右手でなぞる。手が止まった。かすかな、甘い香りが鼻先をかすめた。確かに、それは生クリームの香りだった。僕は少しだけ笑うと、もう一度、クリスマスツリーに向き直り顔を上げた。真綿のような雪は降り続き、僕が流していた涙も消してくれた。「メリークリスマス。林檎」ぽつりと呟く。空よりもずっと向こう側の世界で、彼女が笑っている。そんな気がした

名も知らぬ君へ

例えば、それを一目ぼれと呼ぶにはなんとなくしっくりとこない気がする。別に僕は、彼女を初めて目にした瞬間、恋に落ちたというわけではないのだ。ただ毎日、同じ場所で、同じ時間に彼女を見かけるうちに、いつの間にか特別な感情が胸の内に芽を出していた。 朝。時間は七時四十分ジャスト。近所にある酒屋の低い石段の上で、彼女は何をしているわけでもなく、ただ空を仰ぐような姿勢でいつも一人ぽつんと座っていた。僕が彼女を初めて見つけたのは、今から一カ月くらい前、確か月曜日だったと思う。 高校へ向かう途中で、喉が渇いていた僕はまだシャッターの上がらない酒屋の前に車を止め、店のわきに並ぶ自販機でジュースを買っていた。そして取り出し口から、キンキンに冷えたコーラを手に取り車へ戻ろうとした。 その時だった。不意に視界の隅で、誰かがこっちを見ていることに気が付いた。ほとんど反射的に、何げなく首を回して目にしたのが、その人だった。お互いの視線がぶつかったのは、文字通り一瞬だったと思う。それから僕は後ろ髪をひかれるのを感じながら、そのまま、その場を去った。二度目に会ったのは、翌日。同じ場所で。同じ時間。前日を、そのままコピーしてもってきたような不自然なまでのシチュエーションだった。けれど偶然は、それだけでは終わらなかった。明くる日も、そのまた次の日も、まるでそれが日課であるかのように僕らは顔を合わせ続けた。これが偶然でないことは、途中から気が付いていた。 そうじゃなくしてしまったのは、僕だ。いつからかは分からない。けれど気が付くと、彼女をひとめ見たいがために毎朝、あの場所で飲み物を買うようになってしまっていた。その苦労は容易ではなかった。低血圧にもかかわらず早起きし、食事や朝シャンを家を出るまでの時間内に終わらせる。万が一、遅れそうな時は食事を我慢してでも、僕は同じ時間を狙ってあの石段へ立ち寄るようにしていた。他人が聞いたら、きっと馬鹿にするだろう。僕がその立場なら、鼻で笑う。もっと現実を見ろよ、なんて言ったりもするかもしれない。僕だって、頭ではちゃんと分かっているのだ。そんなことをしても、何も始まらないし、何も変わらない。だけど、この恋は理屈じゃなかった。おおげさなんかじゃなく、毎朝のあの数分のために生きている気さえしたのだ。本当に。
彼女の名前は分からない。歳は上だろうか。どちらともとれない。年齢を感じさえない人だった。とても長い栗色の髪はいつも一束にして、背中をはっていた。座っている彼女しか見たことがなかったからよく分からないけれど、背丈はそれほどないんじゃないだろうか。とにかく、こうして僕はなんのあても保証もない恋にはまった。僕と彼女との間に変化が生まれたのは、それからしばらく経ってからのことだ。たとえ休日でも、ハチ公みたいにこつこつ決まった場所へ足を運んでいた僕は、その日も時間を見ながら玄関のドアを開けた。「あ」雨降りなことに気が付いた僕は、思わず声をもらしてしまった。しかも半端な量じゃない。天が破けて、そこからぶちまけられたような、容赦ない横殴りの雨だった。「これじゃあ、さすがにいないよな」肩を落としながら、それでも手には傘を握り、外へ出る。この天気では親に車を頼むのが普通なのに、僕はあえて徒歩を選んだ。たいした理由はない。ただ、なんとなくたまには歩いて行ってみたかっただけ。それに戻ったら、風呂にでも入ればいいだろうと考えていた。 周囲の音さえかき消すほどの豪雨の中、やっとのこと酒屋へたどり着いた僕は、彼女の姿がどこにもないことを悟り、落胆した。当たり前だ。
いるはずないじゃないか。この天気だ。何度も自分に言い聞かせながら、それでもせっかくだからと自販機の前に立つ。傘を肩にひっかけて財布をジーンズのポケットから取り出す。「今日もきてたんだ」雨音さえ通り抜けるような高い声が、不意に僕に届いた。それが誰であるか予想はついたものの、気が付いた時には後の祭りだった。驚いて取り落とした財布が地面に落ちた拍子に、中身までそこらへんにばらまかれてしまったのだった。慌ててしゃがみこみ、小銭を拾い集める。
「ちょっと、大丈夫?」頭の上からの声に、顔を上げる。そして二階の窓からは、彼女が顔を出してこっちを見下ろしていた。それで気が緩んだせいか、突風に当たられた瞬間、傘の柄がするりと手から抜け、あっと言う間に数メートル向こうまで転々と転がって行ってしまった。「ちょっと!」弾かれたように、彼女が声をあげる。僕の全身は服のまま風呂にでも浸かったかのように、ほんの数秒ですぶ濡れになってしまったのだから声だってあげたくもなるだろう。額に張り付いた前髪をかきあげて再び目をあげると、彼女の姿はなくなっていて、すぐに酒屋の隣のドアから傘を持って出てきてくれた。「はいこれ。傘」もう一方の傘を、その人は僕へ差し出した。 「あ。いいっすよ」と首を振る。「これだけ濡れたら意味ないし」馬鹿ねえ、と彼女は肩を揺らして笑うと、その場にしゃがみこみ、さっき僕が落とした小銭を拾い始めた。慌てて僕もひざを折る。 「いいっすよ。俺が拾うから」「これがないと毎朝、コーラ買えないわよ」 一枚一枚わずかについた砂を払いながら、彼女は僕の小銭を拾い続けて言った。せめて長靴でも履いてくればよかったのにな、と僕は彼女の足元を見て悲しくなった。べージュの高そうなサンダルはすでにびしょ濡れで、色白の足の先まで濡れてしまっている。「はい。どうぞ」拾い終わった僕の全財産を受け取ると、僕は頭を下げて礼を言った。いいのよ、と彼女ははにかむように笑った。「一本おごります。何を飲みます?」「え?いいわよ。別に」「拾い主に、一割」自販機に五百円玉を入れながら僕が言う。あは、と吹き出して彼女は、「じゃあ、コーラね。あなたと同じ」二人分のコーラを手に取り、片方を彼女へ渡す。そこであらためて、僕は自己紹介した。 「上野テツっていいます。いつもあそこの石段に座っていましたよね」「うん。天気のいい日はね。ほら、私の住んでる所が上のアパートだから。あ、私は芹沢キョウコ。よろしくね」よろしく。僕は頭を下げた。まさか彼女と会話が出来るなんて。今頃になって、感動が胸の奥から突き上げてくる。 キョウコさんはタブを開けた缶を僕に傾けると、雨にはとても似合わないようなまぶしい笑顔で言った。「二人の出会いに、乾杯」      END

約束

・・・そうだ。俺は。「よお。ユウジ」背中からの声に振り返る。そこには二年前、肺がんで死んだはずのモリタの姿があった。ユウジは唖然として彼を凝視した。「そんな顔で見るなって」モリタは苦笑いして言った。「やっぱり。俺は死んだんだな」とユウジは肩を落として言った。「ああ。ここにいるということは。そういうことだな」「そうか。そういえばお前、なんで若返っているんだよ。死んだのは八十過ぎだろ」ユウジは我に返ったように言った。「この世界ってのは、どうやら自分のなりたい年齢になれるらしいぜ」そう言って笑うモリタの笑顔には胸をつんと痛める懐かしさがあった。「ま。ユウジ。そういうお前だって俺と同じ高校生だぜ」「は?まじで?」
驚いたユウジは自分の手の平に目をあてた。みずみずしい両腕。つい最近までの枯れた肌とは全く違う。「ユウジ。お前。あいつを覚えているか?ユキの事」モリタの言葉に、ユウジの心臓がぎゅっと縮んだ。けれどそれは唐突な質問だったからというよりは、ユキという名前への反応だった。
ユキ。笑顔が、とてもよく輝いていた。だけど、彼女は二十歳という若さで死んだ。当時、恋人だったユウジを残して。「お前、ユキが死ぬ前にしていた約束、覚えているか」「約束」覚えている、とユウジは視線を足元に落としていった。生まれ変わっても、一緒にいよう。死ぬ間際、ユキは最期まで笑顔を選んでそう言ったのだった。その時の彼女の姿を思い出して、ユウジはため息を漏らした。「顔を上げろよ。ユウジ」モリタの言葉に、彼はぎりぎりと重たくなった頭をもたげた。そして、息を飲んだ。信じられなかった。両目を何度かしばたいても、目の前に映っているものが理解できなかった。「ユキ」彼女だった。「ユキ、お前」紛れもなく彼女だった。「おっす」
とユキは笑顔で手を上げた。まるで昨日も会ったかのような、自然な笑顔だった。たまらなくなったユウジは、考えるよりも先にユキの体を抱きしめていた。両腕に、懐かしい、慣れたぬくもりが溢れる。「ごめんね」ユキは消え入りそうな声で言った。「生まれ変わるまで待てなかったよ」
そろそろと、ユキの手のひらがユウジの肩甲骨の辺りをそっと包んだ。まるで、二つの存在が交じり合うように、何もかもがひとつになっていくような不思議な感覚だった。「ここは天国。会いたかったよ。ユウジ」「離さない。絶対にもう。どこへも行くなよ」涙の絡まった声で、ユウジが言う。その耳元で、うん、と頷くユキのかすかな声が聞こえた。約束の果ては、永遠の入り口から始まる。
              END

ベリー☆ハニー

「高校卒業したら私、福祉の専門学校入るんだ」肩を並べながら歩く彼女が唐突に言った。「福祉?」「そう。福祉」こくんと頷く彼女を、まじまじと見つめる。「縁日をミドリノヒなんて言ってた君が?」「昔の話じゃん」一年前を昔というのなら、まあそういうことなんだろう。「なんだよぅ。何笑ってんの!」容赦なく彼女が僕の尻を蹴飛ばす。馬鹿にしたんじゃない。僕らの未来は成長というレールに乗って確かに突き進んでいると感じたのだ。頑張れ。僕は内心で呟いた。end

さよなら

傾いた太陽が、僕らの足元に影を作る。大きなボストンバックを右手にぶら下げた彼女が新幹線へ乗り込んだところで振り返った。僕を含めた見送りの数人で彼女に別れの言葉を贈る。閉まるドアの向こう側で、彼女はそっと微笑んだ。さよなら。心の中で呟きながら目を伏せる。さよなら。本当に伝えたいことはそんな言葉じゃなかったのに。さよなら。とうとうそれしか言えなかった冷たい三月。end

face

私の向かいのデスクに彼女がいる。私とされほど歳の差がない彼女。ころころとよく笑い冗談も口にする明るさをまとった女。だけど私は知っている。その顔が異性にしか向けられていないことに。同性に対しての陰湿な面も、身を持って知っている。他に誰が知っているかは知らない。彼女の二面性。笑顔の下の、歪んだ表情を。end